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戒をめぐり日本仏教に望むこと ― 寺院の実情に沿った戒制度を

「サンギーティの会」事務局長 加藤悦子氏

2015年8月28日付 中外日報(論)

かとう・えつこ氏=東洋大インド哲学科卒業。東洋大仏教会会員。「祈りの文化を学ぶ会」主宰。「サンギーティの会」では草の根レベルの仏教国際交流を行い、日本在住の外国僧と日本の各宗派の僧侶を対象に、「戒律」「葬儀」「瞑想」などをテーマとして意見交換会を重ねている。「祈りの文化を学ぶ会」では、一般人を対象に日本の精神文化を紹介している。2012年、DVD「世界の般若心経を聴く」を制作。

筆者は地元の京都を基盤に、仏教国際交流の活動を行っている在家者である。国籍・宗派を問わず多くの僧侶から話を聞くことで、かえって日本仏教の魅力と特殊性に気づくようになった。日本仏教は、特に戒制度が特殊である。日本が他国での習慣をそのまま見習うべきとは思わない。しかし日本仏教における戒のあり方には、現実に即した形で、いくつか考えるべき点がある。

仏式の葬儀では、導師が故人への授戒を行うが、最近、授戒に付随する戒名が問題視される場合があるようだ。戒名をつける意味がわからない、それにお布施を払いたくないという声が少なくない。戒名は不要だと主張したり、生前に戒名を自分でつけたいと希望する人が増えているように見える。

儀礼性に偏っている仏式の葬儀への反発が、戒名に対する疑問として現れてきたのだろうか。戒の意義を僧侶が説き直すこと、そして葬儀に伴う問題を見直していこうという声が寺院界の内側からあがってくることを願う。

戒は生者が受ける

そもそも仏教における戒とは、原則的には生きている者が受けるべきもので、修行生活の基本であるといえよう。少なくとも日本以外の仏教国では、このような考え方が一般的のように思われる。

それらの国々で戒を重んじる文化が成立した背景には、輪廻転生の霊魂観が密接に関係しており、その観念は日本より強いようだ。

人は「業」と呼ばれる生前の行為によって、死後に六道のどこかに転生するという「六道輪廻」の教えである。業と輪廻の関係性は絶対的で、変えることはできない。けれども人間に生まれることは修行の機会を得る稀有のチャンスと考え、修行する者は瞑想などを実践しつつ戒を保つことが肝要とされる。戒を保つことは魂に善なる方向を植え付け、業をコントロールすることにつながり、生まれ変わり死に変わり、やがて輪廻を超えようとする己のいのち(魂)の質を高めることになる。

これに対して日本の仏教は特異性をもっている。先に述べたような戒・業・輪廻の三つの関係性があまり自覚されていない。日本人にとっての人と死後の世界の関係は、「この世」「あの世」という二分割が通常であろう。そして、お盆に見られるように、霊魂はあの世とこの世を往き来するという往復型の霊魂観がある。これは仏教輸入以前からの、民族固有のものと言ってよい。一方で、人は死後に転生するという感覚も合わせもっており、多層的な霊魂観があるといえる。

死者と生者が交流

また、日本では100年を超える追善供養が行われる。漢字文化圏の仏教では、儒教の影響から先祖供養に重きを置くことは共通だが、日本以外の国では、三回忌までが一般的である。しかし日本では手厚い供養により、先祖の霊を非常に身近に感じる文化があり、家庭内の「死後の住まい」とも言うべき仏壇を通して「死者と生者の交流」が続いていく。

このような、固有の霊魂観の影響が強かったためか、戒を遵守することで死後の往き先が細分化されるという観念は、日本には育たなかったと思える。

この他、日本で戒が重視されない要因には、中世以降に民間社会に圧倒的に広まった浄土教、特に浄土真宗の影響が大きくあった。そして、日本仏教の歴史が個人の救済でなく護国仏教としてスタートしたこと、厳格な具足戒を採用していた時期が短く、平安初期に天台宗が大乗戒を採用したことで、日本仏教の戒が実質的に転換したことなどがあり、早い時期から戒が形骸化した。

死後の授戒が一般化したのは江戸時代のことである。享保20(1735)年頃成立した『宗門檀那請合之掟』には、「死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事」とある。この作法は曹洞宗の儀礼が起源だが、現在では、臨済宗・真言宗・天台宗・浄土宗でも同じような儀式が行われている。

死後の授戒は、いのちの連続性という側面から見れば、間違いとはいえないかもしれない。が、仏教の原理的な考え方では、本人の自律的決心によって戒が保たれることになる。抵抗できない状態で強制的に戒を授けられることは、理想的とは私には思えない。

清浄な僧のみ授戒

「戒体」の問題にも触れたい。戒体とは、戒を授かった者の身体に宿る、戒を保とうとする原動力のことである。自己を超越した神聖な力と見なされ、戒を保つ僧のみに宿るものと考えられた。そこでインドで授戒法が成立して以来、授戒師は戒を保っている清浄な僧のみが勤めてきた。しかし実際に戒を厳守できる者はわずかなことから、大乗の戒が成立した中国では、当然に戒体を護持すべき諸仏を授戒師とする授戒法も生まれた。日本でも、平安期の戒律の改革や、鎌倉期・江戸期復興運動の際には、戒体の思想が重要視されてきた。

この教えに従えば、戒を授ける人は、戒を保つ功徳を知っていることが理想と言える。

亡くなった人は、私たちがいつか必ず迎えなければならない死という大きな仕事を終えられた存在である。そのような意味では、たとえ小さな子どもであってもその御霊は私たちの先輩にあたる存在ではないだろうか。葬儀では故人に最大の敬意を払い、導師がその魂と厳粛に向かい合うことになる。この時に必要があって授戒を行うのであれば、やはり授ける僧侶自身が戒を保っていることが、向かいあう御霊に対する誠意ではないだろうか。

伝統固守は無意味

ここで、日本における戒制度のあり方について、望む点を二つあげることをお許しいただきたい。

その第一は、戒制度を有する宗派には、僧侶や檀信徒と戒との関係をご再考いただき、日本仏教としての戒、あるいは宗派ごとの新たな戒を再制定し、檀信徒にも伝えていただきたい。これは僧侶、檀信徒たちに多くの戒で縛られた厳しい生活を求めることではない。

在家であるわが身を省みても、五戒を保つことだけでも困難極まりないと実感している。

具体的には寺院の実情に沿った形で、実際の戒を制定し直すべきであろう。たとえば日本の多くの僧侶は結婚しているが、十重禁戒では僧侶は不淫とされるから、この戒を標榜する宗派の僧侶は結婚ができなくなる。しかし、日本では家族の協力があってこその寺院経営である。僧侶の妻(夫)が寺院の使命の理解者であるなら、結婚は寺院の機能を高める力になり得る。夫婦・家族で仏に仕え、地域に溶け込み、人々に尽くしているという方々を、私もたくさん知っている。したがって、杓子定規に伝統的な戒を守ろうとすることに意味はないと思える。

日本仏教を在家仏教と認め、僧や得度の定義をし直した上で、「十重禁戒」や「十善戒」だけを採用し直し、僧俗ともに持戒をめざすという選択もあるだろう。あるいは、今の時代に見合った戒の新しい体系を、一から創造し直してもよいのかもしれない。

第二は、寺院から檀信徒へ、生前の授戒を積極的に行っていただけることを願う。

死後の授戒を行うとすれば、その意味するところを、日頃から檀信徒に説いていただけるとありがたい。

授戒や没後作僧、引導など一連の儀礼の意味が葬儀の場全体で共有されることがなければ、誰のための葬儀かわからなくなる。

もちろん、遺族や参列者に一連の儀礼の意味が伝わったとしても、大切な人を喪った悲しみの大きさには変わりがないだろう。しかし意味を知って葬儀に臨めば、葬儀を通して故人が送られるべきところに送られたという信仰上の安心を得ることにもつながる。この意味で、葬儀の導師を行う僧侶は、当日に限らず、日頃から檀信徒への説明責任を負っている。

今後、多くの僧侶に戒の意義や戒といのちの関係についてご再考いただき、積極的に説いていただけることを願う。それは日本仏教に新しい息を吹き込む一つの働きになろう。