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21世紀の仏教の幕開き ― 空・無我を徹底解明する仏法を

現代における宗教の役割研究会(コルモス)理事・事務局長 佐々木正典氏

2015年7月8日付 中外日報(論)

ささき・しょうてん氏=1939年、滋賀県生まれ。龍谷大大学院修了。浄土真宗本願寺派教学研究所で親鸞教学の研究に従事、助教授、教授を務めた。光音香舎自照庵庵主、国際宗教研究所顧問。
 著書に『親鸞と教団の復活―ポスト・モダン教学』『儀礼奉還』、共著に『ポスト・モダンの親鸞』『真宗儀礼の今昔』など。

一昔前なら20世紀で死んで往けた身が、現代医学のおかげで、とうとう後期高齢者となって21世紀まで生き延びてしまったが、私を導いて下さった有縁の師は、ほとんど死なれた。寂寥うたた深し。そこで、足利淨圓先生の御句をもじって「亡き師らと 語らんとして 言葉なし 御名を称えて 問いつ答えつ」と、世捨てられ人よろしく、知恩院さんのふもとに「自照庵」を結びて、「ありがたや 終の住処が 南無の里」と念仏三昧の余生を送っているわが身である。

『中央公論』は2001年の元旦号で『「宗教の世紀」の幕開き』を宣言し、21世紀を予言したが、この宮一穂編集長(1月で辞任された)の最後の卓見は見事的中。9月11日、ニューヨークの「世界貿易センタービル」が崩壊した「アメリカ同時多発テロ事件」が惹起し、昨冬の過激テロ集団IS(「イスラム国」)の自爆や人質殺害事件が続いている。中世のユダヤ・キリスト・イスラームの近親憎悪の再来かと思われる世界の出現である。

特にイスラームをめぐっては、日本人には縁が薄かったので、いったい何がどうなっているのかさっぱりわからないカオス状況を呈している。

そして、今年は終戦70年。戦後の日本は敗戦から立ちあがり、今日見られるような、またもや、いびつな経済大国の仲間入り。しかし、戦前生まれの身にとっては、今の日本は、私の生きてきた国とは全く違った国になった感深し。

さらに、他国に例を見ないスピードでの、多産多死の大半の国にはない少産少死という、過去の人類が未だ経験したことのない悲しき超高齢化社会となってしまった。そして、とうとう人口学者から、次世紀には日本民族は絶滅するというご託宣をうけ、ついに我々は絶滅危惧種のお仲間に入ってしまった。また、古都京都ではバスや地下鉄、祇園街をぶらつく若者たちは、何やら小さな画面を凝視し、しきりに指を動かしている。それはもう、人間とは異質な新生物の群にしか見えない。

20世紀の100年間、仏教教団や仏教学者は欧米に学び、懸命の対応を重ね、近代教団への脱皮、客観的かつ主体的方法論に基づく論文の山を築き上げ、世界に冠たる地位を確立されたが、悲しいかな、悟りを開いて成仏した人は一人も出世しなかった無仏の世紀であった。

前世紀の仏教学者や宗学者の大半は、研究対象が仏教や宗学であったにすぎない「人文科学者」であった。「仏学栄えて仏法滅ぶ」と嘆いていた老学者の嘆異の声が耳底を離れない。主体的な教団や教学からは僧伽や宗学は生まれない。西洋哲学を学んだ上での空・無我の立場の徹底的究明を成就する仏法のみが21世紀の十方世界と十方衆生の救済と解放の道となるであろう。

昭和38(1963)年、星野元豊先生が龍谷大学学長に就任され、「往相回向と還相回向」の特殊講義が中断されてしまった。そして、その代講に、京都大学哲学科の辻村公一先生の「西洋哲学と仏教」という講義がなされた。当時、円熟の境地に達しておられた上田義文先生の「仏教の人間観」という名講義と同じ時間だったので、大半の学生は上田先生の講義を聞きにいった。それで、辻村先生の講義を聞いたのは、ほんの2、3人、最後まで聞いて、リポートを提出したのは、私一人だけだったという得がたい経験であった。

辻村先生は、私一人のため、熱を込めて、私に哲学とは何であり、今後の仏教学徒が取り組むべき課題を教えて下さった。その講義ノートは、私の生涯を導いていただいた宝物である。

先生は、現代世界は一つになりつつあり、科学技術の圧倒的支配によって、機械的格一化され、この科学技術の徹底的支配の前には、今までの文化や哲学・宗教は反抗することができないと言われた。科学技術によって世界が規定されていけば、本質的に宗教や哲学を受けつけないし、それらは歴史を動かす力にならない。事実、宗教や哲学は現実より締め出しを食らっており、なんとかして科学技術に適応しようかということに浮沈している。しかし、世界が科学技術によってつくられていくことは、実は大きな問題であり、科学的に認識され、技術が形成される世界で、我々人間はどのようになっていくのか、人間が人間として生きていけるのかを考えねばならない。

そして、このような世界をつくり出したのは、近世以後、中世にはなかった人間が自立的主体になったことにある。そして、それはプラトン・アリストテレスに始まり、近世では、デカルト・スピノザ・ライプニッツ・カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲルによって完成されたが、ヘーゲルの死後、シェリングの「なぜ理性があって非理性がないのか」の批判の前に、以後、理性に基づく哲学はあらわれることはなかったのである。

しかし、その後、今日に至るまで、世界は理性的であることをやめたのではなく、現実世界は理性によって科学技術は飛躍的な発展を遂げたのである。

科学的にものを見、技術的に制作することによって、人間は史上はじめて自立的主体に立つことができたのである。ところが、一切の主体に立った人間は、絶えず主体的地位を確保しないと、主体的地位から転落してしまうので、自立的主体的に生きない人間はムチで打たれ続けている。

つまり、今の世界は自転車である。自転車はペダルを回し続けなかったら倒れてしまうのである。だから自立的主体性号のペダルを、ふんぞりかえってお浄土ならぬ無間地獄に向かって回し続けている。

仏教は、インド・チベット・中国・韓国・日本や南方仏教国において、種々変遷してきたが、それらは同一の仏教という地盤であったが、20世紀になって欧米の宗教や自立的主体性、科学技術の進入によって、それらの猛威との悪戦苦闘の歴史が20世紀の仏教であった。

そこで21世紀の仏教は、現代世界の宿業の大地に立って、欧州ではニーチェとハイデガー、日本では魂の行方の求道者西田幾多郞先生や『宗教とは何か』を残して下さっている西谷啓治先生等々の先生方を継承して、現代の自立的主体性や科学技術の徹底的支配の陥穽を直視し、20世紀の自立的主体主義とオサラバし、仏教の空・無我の徹底的解明に精進し、学仏大悲心の心をもって、仏教に基づく立場から発信できる仏教教団や仏教学・各宗宗学の出現が待たれる。

西谷先生は科学技術は業であるとおっしゃっていたが、科学技術こそ現代世界の地球大の最大の業である。即ち、現代人は自分自身自縄自縛の状態にあり、現代世界は世界大、宇宙大の人間の自縄自縛に陥っている。21世紀の仏教徒は、現代世界の宿業の大地に立って、現代世界の業を絶えず見据え続けなければならない。

21世紀の仏教の幕は、今、開かれ、人々は新たなセリフを耳を澄まして待っている。歴史的にできたものは、歴史的に滅んでいく。無縁の大悲に包まれて、また新しい歴史をつくっていったらいいのである。