ニュース画像
「誠」の隊旗を掲げた五重塔院で営まれた法要
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

魔法少女は解脱の夢をみるか? ― 自らの欲望解放が世界を変える

東京大共生のための国際哲学研究センター特任助教 川村覚文氏

2015年7月3日付 中外日報(論)

かわむら・さとふみ氏=1979年生まれ。早稲田大政治経済学部卒。ロンドン大ゴールドスミス校で修士号取得後、オーストラリア国立大で博士号取得。専門は政治・社会理論、近代日本思想史、カルチュラル・スタディーズ。共著に『ポスト代表制の政治学』など。

映画『劇場版魔法少女まどか☆マギカ―[新編]叛逆の物語―』(以下『新劇場版』)の人気がいまだ健在である。この映画は、成人を対象に2011年の深夜に放送されたアニメ番組『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)をもとにしたものである。その人気は大変高く、13年10月の公開初日観客動員数で第1位を記録し、全体的な興行収入も20億円を突破することとなった。DVDやブルーレイと言った映像ソフト版も大変好調な売れ行きである上、最近では一般人が作成したあたかも『新劇場版』の続編であるかのような動画がネット上で大変話題を呼んでいる。

この作品が興味深いのは、興行的に大変成功しているという点だけではない。それ以外にも注目すべきなのは、本作品が(意外にも仏教的な)宗教的意匠を大変多く利用している、という点にある。つまり、一見したところ宗教のポピュラー文化への影響といった分析が容易な作品であり、しかも現代の若者層が宗教的なものに実は無意識的に惹かれているということの例証として、本作品の訴求力が解釈可能に見える作品であるということだ。

具体的に見てみよう。『まどマギ』の基本的なプロットは次のようなものであった。猫のような愛らしい風貌を持つキュゥべえが、思春期の少女たちに魔法少女となるように自身との契約を促す。キュゥべえいわく、この世を破壊する魔女と戦い、「ワルプルギスの夜」と呼ばれる世界の破滅を避けるために、魔法少女は必要な存在であるという。しかし、それに従って魔法少女となった少女たちはやがて残酷な運命を知らされる。

それは、実は魔女とは、魔法少女たちがそれを倒す過程において溜め込んでしまう穢れのせいで、彼女たちが必然的にその存在へと最終的に変身してしまうものであるということだ。その事実を知った魔法少女たちはこれまで自身の存在を世界の「希望」として捉えていたのから一転、絶望する。しかも、キュゥべえはそのような絶望を抱くように、わざと少女たちを魔法少女へと仕立て上げていたのである。

キュゥべえは、実は宇宙全体の保全のために存在する地球外生命体「インキュベーター」であり、そして魔法少女たちの抱く「希望」から「絶望」の「感情の相転移」は、宇宙保全のために必要な莫大なエネルギーを生み出す源であるため、それの採取を狙って魔法少女になるように少女たちを促していたのである。

ここで見られるように、この宇宙の成立は「絶望」によって支えられている、という大変ペシミスティックなテーマが『まどマギ』には流れている。しかもその絶望は、希望的存在であるはずの魔法少女たちが、その活動に必然的に伴うある種の「業」によって、魔女に変身するが故に生じるものである。そして『まどマギ』終盤の展開は、この絶望の苦しみからの救済をめぐって主人公鹿目まどかがどのような決断をするのか、ということに焦点が当てられる。

魔法少女として契約する際には、その見返りに一つだけ好きな願いを叶えられるのだが、物語の終局でまどかが契約する際に口にする願い事は、世界から全ての魔女を生まれる前に消すこと、であった。それは、そもそもこの宇宙の理を根本的に超越しようとすることであり、魔法少女が魔女へと変身してしまうという絶望が起こる前に、彼女たちを救済するという願いである。

ここで、この娑婆世界にあること自体が苦であるにもかかわらず、その娑婆世界の存続を願わずにいられない衆生と、そのような「業」を持つ衆生を苦しみから自身の願力によって済度し安心を与える超越者、といったような宗教的・仏教的世界観に似たモチーフを見て取ることが可能であろう。

しかも『新劇場版』においては、このような救済はまさに「解脱」という言葉を使って説明されている。そしてこのような解脱は、まどか自身がその願いによって、「円環の理」という概念になったことによって可能である、ということなのだ。『まどマギ』の終局において、主人公まどかは全ての魔法少女を救済し解脱させる願をたて、そしてそのような救済を可能とする概念的なある種の「法」へと彼女自身解脱した。

あえて仏教的な言い方をすれば、法=ダルマそのものへとまどかは解脱し、成道したのである。『新劇場版』では、この「円環の理=まどか」を観測し、制御下に置こうとするキュゥべえと、それを阻止せんとする魔法少女たちとの間の攻防が物語の主軸であり、最終的にはキュゥべえの野望は挫かれることになる。

しかしここで注目すべきは、この展開と同時に、非常に宗教批評的なクライマックスが用意されているということである。言い換えれば、これまで物語を支えていた宗教的・仏教的モチーフを全て覆すような結末が『新劇場版』では描かれるのであり、そしてこの結末こそが本作品を、特に政治的に、大変重要なものにしているのだ。

どういうことか。『新劇場版』の結末では、「まどか=円環の理」による解脱への救済を拒否する魔法少女が現れる。それこそが、暁美ほむらという『まどマギ』以来一貫して物語の展開の鍵となっていたもう一人の主人公である。彼女は時間を止めたり遡行したりすることができる特殊能力を持つが、その能力を利用することで、なんとかしてまどかと永遠に一緒に居られる世界の可能性を模索しようとしてきた。

それは、まどかが「円環の理」へと解脱してしまったことで一旦は不可能になったように思われたが、しかし『新劇場版』においてついにほむらも「円環の理」からの来迎が来たかのように見えた瞬間、「円環の理」自体を捕らえるという手段に訴えることで、まどかを解脱からこの世へと強引に引き戻すことに成功する。そして、それは神にも等しい存在を侵し、それに反する「理」を構築する行為であるということで、ほむらは自身を魔女ならぬ「悪魔」であると自称する。

ほむらによれば、このような「悪魔」へと彼女自身を転生させることを可能にしたのは、「希望」よりも熱く「絶望」よりも深い感情としての、「愛」である、という。

この「愛」は大変重要であると思われる。それは世界を変革するためには一切の苦を引き受けるべく自己を滅却せねばならないという宗教的言説への、アンチ・テーゼとして理解できるからだ。こうした宗教的言説は、大なる理想を達成する手段として自己犠牲を美化しつつ、一方でそのような自己犠牲に支えられた既存の権力の問題を隠蔽するような、政治的なものとして機能する危険性を持つ。

それは例えば、被曝を顧みず福島原発に向かった作業員を自己犠牲的な「決死隊」として誉め称える風潮の中にあって、原発災害の問題を「日本人」一般の欲望に起因させることで、権力の責任を相対化あるいは無効化してしまう言説へと化すのだ。それにたいして、ほむらが主張するところの「愛」の持つ含意は、徹底的に自らの欲望に従う(つまり決して自己を滅却しない)ことが世界を変革するためには重要であるということだ。

なぜなら、問題なのは欲望そのものなのではなく、特定の権力の欲望のみがヘゲモニーを握っていることだからだ。つまり、既存の秩序とは特定の欲望にとってのみ都合の良いものであり、それにたいして欲望そのものの解放はそのような偏った秩序を変革する多様な主体を構築する契機となるのだ。全ての欲望が等しく認められることを求めることで、それらをいかに調停するかということに関する適切な思考がはじめて開始できるのである。

宗教的言説が、この思考を抑圧する危険性――欲望そのものを否定する振りをして、権力にとって都合の良い欲望のみがまかり通っていることを隠蔽してしまう可能性――を持つことを理解するには、日本の近代史を一瞥すれば事足りよう。

『新劇場版』の最後に、ほむらはまどかに「秩序」と「欲望」どちらが重要か尋ねる。この問いは決定的に重要であろう。勿論、「欲望」こそが重要であり、それゆえ魔法少女は解脱の夢を見ない、のである。