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田丸徳善先生と日本の宗教学 ― 宗教学の反省的展開をリード

一橋大教授 深澤英隆氏

2015年5月1日付 中外日報(論)

ふかさわ・ひでたか氏=1956年、東京都生まれ。東京大大学院人文科学研究科宗教学・宗教史学専修単位取得退学。現在、一橋大大学院社会学研究科教授。専門は宗教学、宗教思想史、宗教理論。著書に『スピリチュアリティの宗教史 上下』(共編著、リトン)、『近代日本における知識人と宗教――姉崎正治の軌跡』(共編著、東京堂書店)など。

田丸徳善先生が亡くなられて、はや5カ月近くが過ぎようとしている。先生に教えを受けた者として、喪失感はあまりに大きい。またご逝去のわずか前にお電話でお話ししたときも、なお宗教研究の新しい動向についてのご関心を示され、励まされる思いであっただけに、心の準備をする暇もなかった。

田丸先生は、日本の宗教学の歴史のうちに、大きな足跡を残された。そのご業績を宗教学の歴史のなかに位置づける作業は、先生のお仕事の全体を十分に検討した上でなされなければならないが、そのための素描ともいうべき試みとして、先生のお仕事を簡単に振り返ってみたい。

1931年に東京の浄土宗寺院、照善寺に生をうけた先生は、50年に東京大宗教学・宗教史学科に進まれた。戦後の再出発をして間もない当時の宗教学研究室の主任教授は岸本英夫であった。姉崎正治以来同研究室の伝統となっていた宗教の人間学的理解とも言うべき潮流のなかで、先生は宗教学の基礎を学ばれた。とはいえ岸本宗教学がアメリカの行動科学の流れに棹さす科学主義的傾向をおびていたのに対し、田丸先生は早くから、哲学的な思考を宗教学に再接続するということを考えられたようである。もっともそれは姉崎のようなドイツ的・仏教的形而上学につらなるものではなく、解釈学的・人間学的哲学の方向づけを持ったものであった。55年からの5年におよぶ独・米への留学では、グスタフ・メンシングの下で学び、またパウル・ティリッヒの謦咳に接するなど、戦前期以来の宗教学・宗教哲学の伝統を吸収されながらも、同時に宗教学の新しい方向性を探られたことと思う。

60年のご帰国後は、立教大などを経て、73年からご出身の東京大文学部宗教学・宗教史学研究室に移られた。以降先生は、日本の宗教学の研究・教育の中軸として活躍されることになる。東大ご退官後の91年から2001年までは、大正大で研究と教育を続けられた。さて、そうしたなかで数多くの論考が執筆されてゆくが、やはりその中核をなすのは、宗教学の方法論や学問論的反省をめぐる論考群であろう。

これらの論考群は、宗教学の自己理解の大きな転換期にあたり、宗教学の歴史的回顧をふまえて、その諸前提に理論的反省を加えることを目指して執筆された。これらの多くはのちに単著『宗教学の歴史と課題』(山本書店、1987)にまとめられることになったが、同書の巻頭におさめられた77年の論考「宗教学の歴史と課題」を読むと、その行き届いた冷静な議論のはこびと先見の明に、今も驚かされる。この論考の終節で田丸先生は、宗教学が明確な方法と認識目的を持った学問であることが自明ではなくなり、一種の「同一性の危機」に陥っていることを指摘する。これに対し宗教学の方法と宗教そのもののsui generis(独自)性を主張することによって対応する動向が有力な流れとしてあることを先生は示唆する。

これは先生の師であるメンシングからエリアーデの系譜に属する宗教現象学の流れを汲む潮流であるが、田丸先生はこうした動向に「一定の妥当性」を認めながらも、「この立場の論者は、宗教学を救おうとするに急なあまり、宗教を恰も普遍の実体のごとくみなし、宗教学を一種の護教論に逆転させるのみでなく、それを不毛な孤立と、やがては窒息とに追い込む危険を犯していないだろうか」と問いかける。当時の科学論では、科学の「客観性」をどう理解するかが問題とされていた。そこでは、科学的データが理論とは切り離せない、いわゆる「理論負荷性」を持っていること、また科学外在的要因が科学理論に大きな影響を与えることが指摘されていた。

田丸先生はこうした問題が宗教研究においても問われていることを示唆し、その意味で宗教学が目指すべきは自己批判へと開かれた「相対的客観性」であるとされる。それと同時にまた宗教学は、いたずらに学としての自己同一性にこだわるのではなく、むしろ諸学に開かれた「相対的自律性」をその立場とすべきであることをも、先生は強調されている。こうした科学論的・方法論的考察の必要性とならんで田丸先生はさらに、「『宗教』概念の新しい検討」が要求されていると指摘され、その上で、宗教学が「宗教の哲学」と「宗教学の哲学」の二重の意味での宗教哲学との連携を持たねばならないと述べられる。現在宗教学を学ぶ者なら誰もが気がつくことだが、ここで田丸先生が指摘されている一連のことがらはまさに、90年代以降の世界の宗教研究の主流となった問題群なのである。

先生の書かれた数多くの論考のいずれにも共通する特徴は、目配りの利いた、冷静な反省性とも言うべきものであるが、それとともに著作目録を通覧してみると、その主題群の広がりということもあらためて気づかされる。しかもそれらの主題の多くが、その後宗教学のなかで重要なテーマとなったものであり、そうした問題に先生が先鞭をつけられていたのだということが分かる。

たとえば先に述べた宗教概念ということで言えば、「『宗教』のヴィジョンを求めて―日本的宗教概念の問題―」(1992)や「『宗教』概念の制約と可能性」(2002)があり、さらに哲学の言語論的転回をふまえつつ言語と宗教の問題を扱ったものとしては、「宗教研究における言語の問題」(1980)や「比較研究への通路としての言語」(同)が目につく。20世紀終盤のいわゆる「宗教復興」以来再考が叫ばれてきた世俗化概念の問題については、「世俗化概念の妥当性」(1987)や「The Concept of Secularization and Its Relevance in the East」(同)などが、また宗教研究の歴史の批判的検討という近年の世界的潮流に関わるものとしては、欧米の宗教学の系譜を論じられた論考群(前掲単著所収)のほか、とくに日本の宗教学史を考究された「日本における宗教学説の展開」(1984)、さらに編著『日本の宗教学説Ⅰ、Ⅱ』(1980、83)などがある。

東西宗教思想の比較に関わる論考も多いが、その際も「比較」という作業そのものがふくむ諸問題に原理的反省を加えつつ議論を立てられる点が、先生の特徴であった。これについては、「『日本宗教』論と宗教比較の問題」(1972)、「比較思想と比較文化」(1979)、「人間科学における比較の意義」(1987)、「宗教の比較文明論試稿」(1998)などがある。以上のように、ドイツ観念論から現代の宗教社会学に至るまで、高い反省的レベルを維持しつつ議論を展開されるという点で、田丸先生は日本の宗教学のみならず、国際的に見てもまれな宗教学者であったと言うことができる。

なお先生は、はじめに述べたように浄土宗寺院のお生まれで、その跡継ぎとなられることはなかったが、僧籍は持っておられた。宗教学にとっては葛藤の種でもあり、生産性のひとつの源泉でもあるこの「信仰」と「学」という両極的緊張を、先生はご自身のなかで終始検証されていたとも言える。こうしたなかで田丸先生には浄土教の思想内容に踏み込んだ一連の論考、たとえば「浄土教象徴体系試論」(1972)、「浄土と神の国」(1977)、「生命の問題と浄土教」(1981)などがあることも指摘しておきたい。

以上見てきたように、田丸先生は第2次大戦後早い時期に宗教学の研究を開始され、なお内外の旧世代の宗教学・宗教哲学の巨人たちに直接学ぶ機会を得ながらも、宗教研究がそうした時代の古いパラダイムを脱してゆくにあたって、先頭にたって宗教学の反省的展開をリードされてきたと言えよう。また宗教学と宗教哲学(宗教の哲学/宗教学の哲学)の接点を求められたことは、世界の宗教研究の状況から見ても重要である。

さらに先生はご研究のみならず、宗教研究の制度的発展についても、日本宗教学会長を6年間務められたほか、比較思想学会会長、国際宗教学宗教史学会理事、国際宗教研究所理事長などとして、多大な貢献をされた。先生の後半生は病との絶えざる闘いでもあったことを考えるならば、これだけの業績を残され、また社会的責任を果たされたことに、深い敬意を抱かずにはいられない。心からご冥福をお祈りすることとしたい。