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一休の純粋禅と断法の思想 ― 印可を徹底的に否定

堺市博物館学芸員 矢内一磨氏

2015年3月13日付 中外日報(論)

やない・かずま氏=1964年生まれ。同志社大大学院研究指導修了。博士(文化史学)。専門は日本中近世史、堺地域史。現在、堺市博物館学芸員。『一休派の結衆と史的展開の研究』(思文閣出版、2010年)で、全国大学国語国文学会学会本賞を受賞。

正法を後世に伝えることは、発心、修行をして悟りの境地に到った者の責務といっていいであろう。遠い天竺・唐土からの空間的な正法将来にあたり、多くの仏教者が大変な苦労をしたことは、言うまでもない。しかし、正法を後世へ時間的に伝達するために、多くの仏教者が同じく苦労したことも忘れてはなるまい。

ところが、かつて自ら得た法を断つと宣言した人物がいた。室町時代の禅僧・一休宗純(1394~1481)である。

一休については、後世の説話『一休咄』による希代の頓知坊主のイメージが世上に流布しているが、純粋禅を守った真摯な修行者である一面を忘れてはならない。一休は、京・近江で30歳代半ば頃まで修行生活を送る。大徳寺派の華叟宗曇の許での修行は、一休を後には南宋の禅僧で自派の祖にあたる虚堂智愚の継承者であることを宣言する正統的な純粋禅を体現する禅僧へと成長させていった。

祖師の法を護り、天下国家の安寧と民衆の安定を祈る。そして、次の世代へ祖師の法を静かに正しく伝達する。名利や虚飾とは無縁な求道生活が、純粋禅の継承者を自負する一休にはふさわしいものであったのかもしれない。ところが、時代はそれを許さなかった。

一休が生きた中世末の社会は政治・経済とも混乱を極めた時代だった。禅宗寺院を外護した朝廷・幕府・荘園領主は力を失い、地方の大名や都市の豪商たちに富の集積は移りつつあり、近世への胎動を感じさせる時代でもあった。

その動きを最も象徴的に体現したのが、貿易都市堺である。遣明貿易や国内貿易で急速に富を蓄えた堺は、国内最大の経済都市へと成長をしていた。莫大な富を蓄えた堺の都市民は、都市運営をそのなかでもとくに有力な豪商による会合で行うシステムをつくりあげた。イエズス会の宣教師によってベニスの如き議会制と報告をされた会合衆による都市運営である。

そのような都市に対して禅・法華・念仏のような新しい宗教勢力が、布教活動を行うことは、当然の理である。一休もその一人であった。その年譜によると1432、35、69、70、74年とたびたび堺を訪れている。都市民が牽引する経済と大陸から直に入る文化が醸し出す空気に触れる堺巡遊は、一休にとって好ましいものであったであろう。しかし、同時に華叟門下の兄弟子養叟宗頤一派の都市布教の実態に接することにもなった。そして、それは純粋禅には程遠いものであった。

1456年頃に一休とその弟子たちによって編まれた詩文集『自戒集』は、堺布教を辛辣に批判する。養叟の堺布教では従来の大徳寺派の布教対象の主流から外れていた比丘尼・商人・田楽(芸能者)・座頭が主要な対象となっている。つまり社会的階層は低いが貿易都市で活躍する富を持った新興勢力である。教養層ではない彼らへの布教方法は「カナツケノ古則ヲヲシヱテ」、「得法ヲサセラレ」という形式で行われた。

「地獄ノ話」「栢樹子」「西江水」といった禅の先師たちが必死に取り組んだ禅の公案がカナで書かれ、都市新興層の茶飲み話とされてしまい、教えを受けた人々は、「自分は養叟さまから地獄ノ話を聞いたから、地獄には落ちない」といった自慢をし、悟りを得たかのように振る舞い、他に禅の教えとしてにわか仕込みの公案をしゃべっている。一休にとっては純粋禅の堕落以外の何物でもない。

そこで、布教について「養叟流の布教は純粋禅の堕落に満ち、満載の教義は担うと真ん中で担い棒が折れてしまった。養叟に接した比丘尼たちはいっぱしの悟りを得たと喜んでいるが、覚えているのは、雁高(男性器の意)のような竹箆の大きさだけ」とまで言い切る。また、養叟が55年に堺で開いた陽春庵についても鋭い舌鋒が向けられる。

陽春庵建立を「新たに楽屋を打ち」とし、養叟の弟子で堺での支援者の要兄と小免助四郎が信者集めに辣腕を振るう姿を「芝居への動員」と表現する。そして、養叟の陽春庵では「庵ヒラキニ、五種行ヲ行フ」とする。

五種の行とは、「一ニハ入室、一ニハ垂示・着語、一ニハ臨済録ノ談義、一ニハ参禅、一ニハ人ニ得法ヲオシウ」である。入室は個人教授、垂示・着語は法話による集団指導、臨済録ノ談義は語録の講義、参禅は坐禅の指導、人ニ得法ヲオシウは得道得悟の証としての印可取得の指導といったものである。いずれも祖師以来の純粋禅から逸脱したものであり、もはや陽春庵は仏法を売る堕落をしきった芝居小屋であると揶揄するのである。

さて、一休は純粋禅の忌むべき混乱は、悟りを得たとする印可(証書)にあると考えた。自分は華叟からの印可下付を拒否したし、そもそも証書が純粋禅と何の関係があるのか。そこで一休は民衆への印可の濫発の動きを断つため、印可を徹底的に否定する。そしてついには印可を否定する余りの転宗断法宣言に到る。

『自戒集』においては、一休は印可の証とされる祖師の肖像である頂相を本山へ返却して、禅を捨てて念仏宗や法華宗になったとまで述べている。これほどまでに断法の思想を鋭角的に表現した人物を寡聞にして知らない。

もっとも転宗宣言は、印可を持たない他宗へ転じてでも純粋禅を貫徹するという表現であろう。養叟一派と堺の富裕層に突きつけた鋭い言葉、すなわち研ぎ澄まされた比喩であり、印可を濫発する貴方たちの禅など捨てるという比喩表現を額面通りに歴史的事象に当てはめて、一休が念仏宗や法華宗になったという解釈をする必要はあるまい。

ところで印可の下付による布教は養叟一派の専売特許ではなかった。ここで、養叟の側に立って考えてみよう。養叟の布教を15世紀の歴史の文脈で考えた場合、堕落の一言で片付けてよいのであろうか。

これまで禅の教化の対象から外れていた文字を知らない、あるいは漢字を知らない民衆に対し、法話による集団指導などで布教をして地獄の恐怖からの救済を行う。新興都市である堺の富裕層が求めた文化的渇仰を満たす教団側からの動きであり、それこそは、新しい時代の社会の胎動に反応した禅の布教改革の試みでもあったことを忘れてはならない。尼への個人教授・芝居小屋での禅の芝居と揶揄されているが、女性富裕層・芸能者ともに15世紀の歴史の舞台に現れた名優であることに異論はあるまい。

一休が批判する養叟周辺に見られる動きは、堺で布教を行う一休周辺でも発生する傾向にあった。『自戒集』においては、自派のそのような傾向を戒める言葉が繰り返されている。

それは、詩文集のタイトルを自戒としたことに端的に示される。堺という都市を舞台にした自派および同系の養叟門派の布教活動に対して、一休が発した比喩に満ちた自戒の言葉によってつづられた書が『自戒集』なのである。室町時代の堺で布教する一休が『自戒集』に残した激しい言葉は、現実と対峙するなかで、何物にも因われない純粋禅の立ち位置を明確にするために、「自戒」に立脚して発した、比喩に満ちた語彙であると結論することができる。

一休が遷化する直前の78年。一休派の後継者を指名する段階においても断法の思想は出現する。京田辺の酬恩庵で静養する体力が衰弱した一休に対して、親交があった尼崎・広徳寺の柔中宗隆から後継者を立てよと忠告が入る。虚堂以来の正法の伝承を一休の代で断つことは、祖師への「不忠」であるとの言葉であった。

それでもなお、一休は断法の意志を示す。一休派は四散の危機に瀕した。一休の弟子たちは師匠に対し、後継者指名を迫る。後継者の器は数名いるが、後継者は指名したくないと渋る一休を弟子たちはさらに追い詰める。とうとう一休は高弟の没倫紹等の名を口に出してしまう。

弟子たちは驚喜して没倫の下に押しかける。ところが没倫は、師匠がそういったとしても、それは病気で頭が変になったか、年がいって耄碌したかどちらかだ。一休に長年にわたって仕えて言動を見ておいて、馬鹿なことをいうなと怒って席を立ってしまう。強烈な断法である。

一休の間近に居り、後に一休派の中心になった祖心紹越の回顧であり、大徳寺・真珠庵文書に採録される祖心の直筆記録であるから間違いあるまい。

では、いまに伝わる一休の法は81年に一休が遷化した後、どのように後世に伝達されたのであろうか。一休が遷化した後に弟子たちは、自派の大事を合議で決するために、京田辺の一休が眠る祖師塔に一年に一回結衆する仕組みをつくりあげた。ブッダの示寂後、仏弟子たちが結衆を繰り返して原始仏教教団を形成し、ブッダの法を後世に伝えたことを彷彿とさせる。

一休の法は印可によって伝承されることも、その死によって断法されることもなく、そのまま後世に伝えられたのである。その仕組みは、時代によって機能の強弱はあっても明治時代まで継続した。

一休の弟子たちが師の断法の思想を乗り越えて、現在にその法を伝えたともいえよう。従来、一休一代限りの法のように語られた風狂の思想もこのような観点から語られるべきであるかもしれない。