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「総合経典」としての法華経 ― 信仰の対象、仏そのもの

神戸女子大学瀬戸短期大名誉教授 岡田行弘氏

2015年3月4日付 中外日報(論)

おかだ・ぎょうこう氏=1953年、岡山県生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学。ボン大学Dr.Phil.(哲学博士)。神戸女子大学瀬戸短期大名誉教授。立正大法華経研究所特別所員。日蓮宗妙興寺住職。
◇阿含経典と大乗経典

先ごろ完結した春秋社の「シリーズ大乗仏教」(全10巻)では、大乗仏教に関する様々な問題が取り上げられ、最新の研究成果が集約されています。インドで誕生した大乗仏教を説明するためには多くの言葉を重ねなければなりませんが、とりあえず「大乗仏教は大乗経典を仏のことばとして受け入れる仏教である」と定義できるでしょう。ここでは「経典」ということがポイントで、大乗仏教はまず経典として仏教の世界に出現したのです。

アショーカ王の時代以降、仏教教団は経済的に安定し、一般社会からの供養を受けるにふさわしい威儀を保っている複数の部派が共存する時代を迎えていました。この時代までの経典は、いわゆる阿含経典です。弟子たちによって記憶されたブッダの教えは、教団の内部で暗唱によって安定的に伝承されました。個々の経典は、比較的短く、特定の教理(例えば無我、四諦、縁起など)を説くものであり、そのカバーする領域は限られています。ブッダの教えを全体として理解し、習得するためには、個々の経典を分析しダルマの体系として再編成しなければなりませんでした。

一方、紀元後1世紀頃から制作されはじめた大乗経典は量的に長大であるだけでなく、その構成要素は複雑です。しかも物語性に富み、内部で教説が発展していく、という特徴があります。例えば、法華経では前半部が終了すると突然、大地の中から無数の菩薩が出現し、後半部の中心である「如来寿量品」において、仏の寿命が過去から未来に至るまで継続しているという教説が展開されることになります。

こうした特徴のために大乗経典は、書写されたテキスト(経巻、写本)という形態になって初めて完成し、伝承されるようになります。大乗経典には書写の功徳を強調し、経巻の供養を奨励する経文がしばしば登場します。そこからは伝統的な声聞の修行道を歩む比丘たちが多数を占める当時の仏教教団において、当初は少数派であった大乗経典の存続・伝承が容易ではなかったことを読み取ることができます。

◇大乗経典の背景と構造 般若経と法華経

ここでは般若経と法華経を簡単に見てみましょう。両経典の背景には、ブッダが入滅してから500年経って、その正しい教えが失われつつあるという時代認識があります。

般若経(『八千頌般若』)は仏の一切智を「般若波羅蜜」として新たに提示し、従来の仏説を統一的に再構成しようとする経典です。「般若波羅蜜」は「諸仏のさとりの源」であり「菩薩の生みの母」であり「教法の蔵」であるとされます。般若経の中にそれまでの仏教の教理が、再解釈され、すべて包含されるというわけですから、仏滅後の世界では、般若波羅蜜が仏の役割を担うことになります。

法華経は釈迦仏の不在の時代に、あらたな仏のことばを届ける経典です。仏教では、個別の教理は弟子が説いても差し支えありません。しかし、成仏を目標とする仏教者にとって最も重要な「あなたは仏になります」ということば、すなわち、成仏の保証・確認は、現に存在する仏によって与えられた時、真実となります。法華経は、「すべての人は成仏する」ということばを与える久遠仏(=現在する釈迦仏)を生み出す経典です。法華経の「如来寿量品」では「仏は常に法を説いて衆生を教化し、仏のことば(=法華経)を信じる人にはその場に仏が出現する」と説かれています。釈迦仏の滅後の世界においては法華経が仏そのものなのです。

両経典はともに書写された経典(経巻)を供養することを奨励し、経典を実践することによって、広大な功徳が獲得されることを強調します。般若経や法華経は、「般若波羅蜜が記された経巻(法華経の経巻)に花・香料・灯明を布施して供養して獲得される福徳は如来の仏塔に同様の供養をして得られる福徳よりもはるかに大きい」と説き、当時一般的に隆盛していた仏塔崇拝よりも経典の供養を奨励しています。つまり、信仰の対象として、ブッダの遺骨でなく、ブッダの智慧の源である般若波羅蜜やブッダのことばとしての経典を優先し、選択することを全面に打ち出しているのです。

経巻が生み出す功徳や現世利益を説く章品は、経典の核心的教義が示された直後に配置されています。このように般若経や法華経は在家者が求める除災や現世利益から、出家者が目指す涅槃の獲得まで仏教に求められる多様な願望に対し、単一の経典の範囲内で対応できるように構成されています。これは阿含経典には見られない大乗経典の特徴と言えるでしょう。

般若経は「大乗とは無量と同じ意味であり、無数の衆生を入れる余地がある」と説き、また法華経は自らを「拡大された経典(ヴァイプルヤ・スートラ)」と規定しています。つまり経典という形式を取りながら、内部に従来の仏教の諸相を総合的に包み込み、仏教の新たな出発点としようと意図しているわけです。

そのために経典に対する非難・批判に対しては厳しく応答します。般若経では、般若波羅蜜を誹謗する者は、大地獄に生まれると説き、また法華経でも経典を誹謗することは手厳しく批判されます。これらの経文は、現代の読者を当惑させる場合もありますが、経典作者にとっては「般若波羅蜜」や法華経は「信仰の対象」であり、仏と同等なのです。つまり経典に対する批判は、仏教全体を誹謗するものであると受け止めているわけであって、排他的とも見られる経文は、総合性と表裏一体の関係であると考えられます。

◇仏教を総合する「法華経」

法華経の編纂者は先行する般若経の構想や内容を参照しながら、他方世界の諸仏への信仰が広まって仏のイメージが拡散しがちな時代状況を認識したうえで、釈迦仏を正統とする「衆生成仏の一切の教えを総合する経典」として法華経を完成しました。

法華経の弘通を説く「如来神力品」で、仏は結論として次のように宣言します。

「私は、ブッダのすべての教え、ブッダのすべての威神力、ブッダのすべての秘要、ブッダのすべての深遠な境地を要約して説いた」

同時に仏は、法華経の菩薩たちに経典の流通を委嘱します。彼らのなすべきことは、法華経を受持し、読誦し、書写する等の実践活動です。そしてその場は直ちに「諸仏がその所で、さとりを獲得し、教えを説き、涅槃に入る」という道場になると説かれています。つまり法華経が実践されれば、それは時間的空間的な制約を超越した仏教の聖地になるわけです。

さらに巻末の諸品では、当時の仏教世界における種々の動向、例えば観音菩薩の衆生救済や陀羅尼の威力を法華経の信仰の形態として位置づけ、法華経の内部に取り入れています。このように法華経は、それまでの仏教をめぐる様々な要素・活動を統一し、総合する経文を展開していますので、「総合経典」と呼ぶことが適切であると思います。

仏教への入門は三宝への帰依からはじまり、戒定慧の三学を習得していくわけですが、そのような伝統的なインドの仏教世界において、総合経典と形容できるいくつかの大乗経典が生み出されました。その結果として、仏教のあり方が大きく変容することが可能になりました。すなわちある一つの「総合経典」に全面的に帰依し、その教説を実践することを活動の中心に置くグループが成立するという可能性です。そこでは出家と在家という伝統的な仏教における区別は解消されることにもなります。しかし、歴史的に明らかなように、大乗経典は律によって出家者の生活が規定され、伝統的な修行道が厳然と存続しているインドの仏教世界を根本的に変革させることはありませんでした。

その一方、インドとは全く異なった風土・生活習慣を持つ中国や日本(インド仏教の律蔵が適用されない文化圏)にもたらされた大乗経典のいくつかは、広範に受容され、宗派の所依の経典となります。これはその大乗経典が、「仏教を総合する経典」として完成されており、教理から実践まであらゆるレベルの仏教を展開させる力を持っているからです。そのような総合経典としての大乗経典の白眉が法華経と言えるでしょう。