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入唐僧 恵蕚の足跡たどる ― 遣唐使後の日中交流の礎を築く

関東学院大経済学部教授 田中史生氏

2015年2月20日付 中外日報(論)

たなか・ふみお氏=1967年、福岡県生まれ。國學院大大学院文学研究科博士課程後期修了。博士(歴史学)。島根県教育庁文化財課主事を経て、現在、関東学院大経済学部教授。専門は日本古代史。著書に『日本古代国家の民族支配と渡来人』(校倉書房)、『倭国と渡来人』(吉川弘文館)、『越境の古代史』(ちくま新書)、『国際交易と古代日本』(吉川弘文館)など。

中国四大聖山の一つ、浙江省舟山群島の普陀山は、観音霊場として名高い。休日ともなると、各地からの多くの観光客でにぎわう。その島の東南に、不肯去観音院という小さな寺院がある。9世紀の日本僧恵蕚が聖地普陀山を開基したことを記念し、1980年に建てられた。寺の門の壁に、恵蕚の開山伝承を描いた青灰色の石製レリーフがはめこまれているが、恵蕚像の部分だけひときわ黒く光っている。観光客らがしきりになでるからである。

しかし日本では、恵蕚の名を知る人は少ない。彼の出自や法脈は不明で、研究もあまり進まなかったからである。ところが最近、筆者は、恵蕚の関連史料を調査する機会があり、そこで、恵蕚の歴史への貢献の大きさに驚かされることとなった。

■太皇太后の期待

最後の日本の遣唐使となる承和の遣唐使が派遣された9世紀の半ば、日本の近海では新羅人・唐人の商船が入り乱れ、活躍の場を広げていた。恵蕚の最初の渡唐が確認できるのは、こうして東アジア海域の主役が、国家の仕立てた外交使節船から商船へと切り替わろうとする時期であった。その時の恵蕚の様子を、承和の遣唐使船で入唐した延暦寺僧円仁の在唐日記、『入唐求法巡礼行記』が捉えている。

それによると、遣唐使が帰国した直後の841年、恵蕚は弟子とともに新羅商船で楚州(江蘇省淮安市)に上陸した。ここには、対日交易に携わる新羅出身者の集住地区があった。恵蕚は彼らを頼って楚州を訪ね、そこから中国北方の五臺山へ向かったのである。その後、同年のうちに江南に入り、天台山へも足を延ばし、翌年、明州(寧波)から帰国している。

このように、恵蕚最初の入唐は、わずか1年ほどの間に、中国の南北を駆け巡る慌ただしいものとなった。そこには太皇太后橘嘉智子の意向が働いていた。この時、嘉智子は自ら製作した袈裟や宝幡を恵蕚に持たせ、五臺山だけでなく、彼女の崇敬する高僧らの祀堂へも奉施を命じていた。

また、本格的な禅宗の導入をはかり、杭州塩官にあった著名な禅僧斉安の招聘も試みさせている。すでに老齢で体調のすぐれない斉安は、この誘いを受けられず、弟子義空を紹介したが、その義空も来日の準備がすぐには整わなかった。そこで恵蕚は、天台山を巡礼後、義空を残したまま、近くの明州から新羅人の操る商船で帰国したのである。

■恵蕚と新羅の交易者たち

ところで、恵蕚が842年の帰国で用いた明州・舟山群島から直接九州へと到る海上ルートは、後に「大洋路」と呼ばれ、日中を結ぶ航路として頻繁に用いられるようになる。恵蕚の雇った新羅人の商船は、この大洋路を航行した最初の商船でもある。

しかし、もともと恵蕚は、渡唐ルートを逆にたどる帰国を計画し、楚州の在唐新羅人に船の手配を依頼していた。楚州から山東半島・朝鮮半島沿いに博多へ到る北路である。この方が外洋航海の距離が短い分、安全性も高い。ところが、恵蕚がいよいよ帰国をしようとする時になって、北路海域に緊張が走る事件が起こった。

新羅交易者の首領の張宝高(張保皐)が、新羅王権と対立して暗殺されたのである。新羅の貧困層出身の宝高は、故郷を離れて唐で身を起こした後、新羅に戻って唐―新羅―日本を結ぶ交易世界に君臨した人物。しかし、さらなる出世を求めた彼は、新羅政界に深入りしすぎて身を滅ぼしてしまった。

こうして宝高というカリスマを失い統率のとれなくなった交易者たちは、それぞれに利権を争い激しく対立する。彼らの交易拠点は、黄海を取り囲む中国沿岸部から朝鮮半島に築かれていて、この海域がたちまち紛争の海に変貌したのである。

日唐往来を新羅商船に頼る恵蕚が北路での帰国をあきらめ、明州から大洋路で帰国したのは、彼を支援する在唐新羅人らの助言に従ったものだろう。海上交通の安全性が、その海域と接する陸の政治や社会情勢に左右されるのは、今も昔も同じなのだ。

■会昌の廃仏に遭遇する

帰国した恵蕚は、それほど時を空けず、844年初頭には再び唐に戻っている。この時も、おそらく新羅商船で、黄海海域を避けて明州に上陸した。彼の任務は主に二つ。

一つは、義空禅師を日本に招聘すること。もう一つは、日本からの供養料を五臺山に届け、山中に「日本国院」を作ることである。これらの計画にも、嘉智子をはじめとする天皇家の意向があった。

ところが、明州から五臺山への道を急ぐ恵蕚は、唐仏教界を取り巻く環境の激変に困惑する。道教に傾斜した武宗皇帝が、仏教を徹底的に弾圧する、いわゆる会昌の廃仏を始めたのである。このために、明州から北上していた恵蕚は、長江を渡ることができず、僧の身分を隠したまま蘇州に長く足止めされることとなった。

しかしここで恵蕚は、その後の日本史にも影響を与える二つの重要な出会いをしている。一つは、白居易(白楽天)の『白氏文集』との出会いである。それは、蘇州南禅院で厳重に保管・管理されていた。

これまでも日本には『白氏文集』が断片的には伝わっていたが、恵蕚は特別な許可を得て、当時の最新版である70巻本を書写するチャンスに恵まれたのである。書写した文集は、恵蕚の帰国より一足早く844年に日本に届けられ、平安文学などにも多大な影響を与えることになった。

もう一つは、江南を拠点に幅広く交易活動を行っていた唐商との出会いである。彼らは、武宗の廃仏政策に批判的で、弾圧される仏教界を密かに支援していた。こうして新たに親交を深めた唐商らの協力を得て、847年、恵蕚は義空を連れて日本に戻った。義空は、仁明天皇や嘉智子に大いに歓待され、それに協力した江南の唐商も天皇家の信認を得て、以後、日中交流の主役に成長していくことになる。

■普陀山の観音信仰

しかし、せっかく来日した義空も、日本仏教界の戒律の乱れに深く失望し、854年には唐に帰国してしまう。この間、武宗皇帝の死去を契機に唐仏教界は復興を遂げつつあり、日本では、義空最大の支援者だった仁明天皇や嘉智子が亡くなっている。義空の帰国には恵蕚も同道した。彼が普陀山の観音信仰とかかわりを持つのは、その少し後のことである。

諸史料が伝えるところによると、聖地普陀山は859年、恵蕚が五臺山から日本へもたらそうとした観音像が、普陀山の先へ進むことを拒み、この島に安置されたことを始まりとする。注目されるのは、その話の骨格が、すでに恵蕚と同時代に、観音像を最終的に安置した明州の開元寺で語られていたことである。しかも恵蕚は明州開元寺を度々利用していたから、この奇譚の成立に、開元寺だけでなく恵蕚自身がかかわった可能性が高い。

明州が東アジアの交易拠点として発展し、舟山群島も海上の中継地としての重要性を増す時代、ここを行き交う人たちは皆、旅の安全を願う拠り所を求めていた。おそらく恵蕚は、日・唐・羅の多くの人々に支えられた恩を感じつつ、その旅人たちの苦しみに応えようとしたのだろう。こうして普陀山は、民族や国境を超え、広く崇敬を集める聖地となった。

さて、私たちは今、歴史の共有空間を国境付近でつまずかせ、困惑している。恵蕚は、こんな現代にも、多くの示唆を与えてくれているような気がしてならない。