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「命てんでんこ」考 ― 生命の尊さを多層的視点で

大正大教授 弓山達也氏

2015年2月11日付 中外日報(論)

ゆみやま・たつや氏=1963年、奈良市生まれ。法政大文学部、日本学術振興会特別研究員などを経て、98年に大正大講師、2000年に博士(文学)、06年から現職。専門は宗教社会学で市民社会と宗教との架橋に関心を持っている。主な著書に『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき―』、『現代における宗教者の育成』(編著)『いのち 教育 スピリチュアリティ』など。
◇道徳教育用教材を今年度に全面改定

2002年に全国の小中学生に文科省から配布された道徳教育用教材『心のノート』が今年度から『私たちの道徳』というタイトルで、全面改定された。『心のノート』が短いフレーズや写真・絵を多用してイメージとして分かりやすい半面、抽象的との批判もあってか、『私たちの道徳』には偉人・著名人伝や読み物資料が盛り込まれ、ボリュームアップがはかられている。文科省はこの教材の活用推進事業に約6億円の予算を計上し、今年度の新規事業「道徳教育の抜本的改善・充実」(14億円)の最初にすえている。

『心のノート』の時もそうであったが、『私たちの道徳』に関しても活用推進の意見とともに、ある種の思惑をこの教材配布の背後に感じ取る向きもあるようで、すでに賛否の議論が出されつつある。

下村文科相は5月12日に自らのフェイスブックに「児童生徒に他の教科書のように家に持ち帰らせず、学校に置きっ放しにさせている学校があることが判明しました。是非保護者にも読んで頂きたいと考えています。子供たちが、きちんと家に持ち帰っているか調べて頂きたいとお願いします。そうでないところは文科省として指導したいと思います」と一般公開で書き込み、話題を集めた。道徳を「特別な教科」にするという動向にも、今後、この教材は絡んでくるのだろう。

◇いのちの教育で「命てんでんこ」を教える意味

ところで筆者が『私たちの道徳』で注目したいと思うのは、小学校高学年版のいのちの教育のパートにある読み物「命てんでんこ」である。『心のノート』の同学年版では、いのちは、与えられ、支えられ、人間を超えた「大いなるもの」とつながっており、だから輝かさなければいけないという明確な輪郭が描かれていた。東山魁夷の画と語りが用いられ、迫力ある内容になっていると同時に、抽象的で分かりづらい、一方で押しつけがましいという意見が聞かれた。

『私たちの道徳』では、「大いなるもの」が「大いなる自然」とも言い換えられ、また近親者の死という比較的分かりやすい事例もあげられ、子どもたちの理解を助けている。

ここで取り上げられている「命てんでんこ」の話は、東日本大震災を体験した中学生の作文で、そこには「僕はがれきの中を歩きながら思ったことが二つある。一つは『命てんでんこ』という言葉の深い意味。命より大切なものはありません。どんなことがあっても逃げることを考えてください。命があればどうにでもなります。未来に向かって歩き出せます。/もう一つは、負けたくないと思ったこと」と書かれている。

「命てんでんこ」は、三陸地方で伝えられる「津波の時はてんでばらばらに逃げろ」という意味の言葉である。震災後の防災教育では「てんでんこ避難」とも呼ばれ注目を集めた。同時にこの言葉は自分だけが生き残ってしまった遺族の自責の念を和らげる働きがあるとも指摘されている。そして興味深いのは、これまでの道徳の副読本の多くが自らの命や財産をなげうって他者の命を救うことに目を向けていたのに対して、「自分の命は自分で守れ」は大きく異なる点である。

同じ小学校高学年用の道徳の副読本では、どのように「いのち」は教えられてきたのだろう。

例えば関東大震災で妻子の無事を案じつつ見ず知らずの人を救い、隅田川の中で自分が力尽きておぼれる恐怖に打ち勝ち何十人もの人を助けた男を描いた「もう火の中で」(『かがやけ みらい』学校図書)。山岳警備隊の活動に焦点をあて、隊員が心身の限界を超えて女子学生の命を守ったエピソードを紹介する「命をかけて命を守る」(『ゆたかな心・新しい道徳』光文書院)。安政南海地震の際、高台にある刈って積み上げられたばかりの稲藁に火を放ち沿岸の人々を津波から救った名主の話「稲むらの火で命を救え」(『5年生の道徳』文溪堂)などがある。

いずれも自他の生命の尊重や支え合う命を学習目標とする感動的な読み物である。こうした自己犠牲的な態度からすると、「自分の命は自分で守れ」という「てんでんこ」は、見方によっては180度の転換ともとれよう。

◇様々な解釈の余地

「命てんでんこ」は防災教育のスローガンなのか、遺族のためにある言葉なのか、他者の命を大切にする行為と矛盾するのか、教育現場ではいったいどうやってこれを教えるのだろう。

『私たちの道徳』には先の作文が掲載されているだけである。文科省が作成した指導資料書には「児童は様々な視点から生命の尊さについて考えを深めることができる」とあるが、その「様々」について言及はない。

ただそこには防災的、心理的負担の軽減だけではなく、もっと違う次元が横たわっているに違いない。それは例えば普段から深くつながっているからこそ離れて逃げなければならない峻厳さ、ばらばらになって、たとえ万が一のことがあっても、きっとどこかでつながっているであろう願い、そうした、いわばスピリチュアルな次元がそこにはあるのだ。

筆者は、昨年12月26日に京都で開催されたコルモス(現代における宗教の役割研究会)研究会議(本紙1月7日号に既報)でこの話をして、参加の僧侶から「てんでんこは、あなたに逃げてほしいという意味で、他者の命を大切にする思いと矛盾しない」という指摘をいただき、ハッとしたこともある。

もちろん「てんでんこ」の解釈として、どれが正しいかを問うているのではない。当事者にとっても多義的であろう。昨年、筆者は東日本大震災後の津波で娘さんの命を奪われたご家族を訪問したことがある。その娘さんが役場の防災業務を全うして亡くなられたことから、職場のあったところには今も花が手向けられ、彼女を学校の道徳の教材として紹介したいとの申し出もあるという。実際、ご両親は家を開放して津波の恐ろしさを伝えるボランティアをされている。

しかし娘さんの死が自己犠牲として礼賛されていることに対しては「美談ですか」と強い語調で否定されたのが印象的であった。

残されたお母さんは手記も著されている。その中には「自責の念」という言葉が見られる。同時に「亡き娘と共に生きる」という思いもつづられている。娘さんの死と生き残ったご両親をめぐって、後世に残す教訓、美談、自責の念、共に生きている感覚など、様々な物語が生まれ、それらは一つに収斂するには、まだあまりにも生々しすぎる。そして当事者の前では「受け止め方は人それぞれですね」などとは口にできない、つまり他人事の相対主義を寄せ付けない重さと深さがある。

「生命尊重」という4文字にすると、あまりにも素っ気ない道徳の学習目標に接近するには、「てんでんこ」のみならず、こうした多様性と重さ、深さに子どもたちの意識を向かわせるしかない。

◇スピリチュアルな視点に宗教者の知恵を期待

しかしこうした教材を教えるには豊かな人生経験・感受性や卓越した洞察力が必要である。いのちの教育の現場には「名人芸」を披露する教師が時々現れる。しかし誰もが名人になれるとは限らない。そこで目に見えない徳目を見えるようにエピソードで可視化し、複雑に絡まった議論を分かりやすく整理し、どこの誰でもが使えるような教材で授業を標準化し、子どもたちがきちんと身につけたのかどうかを測定する検証方法が必要となる。

つまりマニュアルを作る訳だが、マニュアルを作ろうとすると「誰が」「何の目的で」と、「価値の押しつけ」に対する警戒感が生じる。こうした道徳教育に関する危惧は、先の『心のノート』への批判の中心でもあり、『私たちの道徳』でも顕在化しつつある。

これを回避するためには、すでに実施している学校もあるが、道徳教育に保護者や地域の人々が積極的に関わるなど、道徳教育を家庭や地域に「開いてみる」ことだろう。道徳教育は教師や学校だけで完結するのではなく、コミュニティーの様々な視点を交わらせることで、政治的・個人的な意図や思惑の恣意性を乗り越えることができよう。

またマニュアル化すると道徳教育はどうしても言葉が上滑りし平板になりがちである。「てんでんこ」を「自分の命は自分で守れ」という字面だけで解釈してしまう陥穽がそこにある。たとえ別れても共にいるというようなスピリチュアルな次元の視点が関わらないと、「てんでんこ」の話は理解できない。

マニュアル化にともなう平板化を打破するためにも、道徳教育には多層的な視点が不可欠で、その多層性を機能させるためにも、道徳教育を家庭や地域に開く必要があるのだ。もちろん、そうしたスピリチュアルな視点に宗教者の活動や知恵が期待されていることはいうまでもない。

とはいうものの開かれた家庭や地域がそれに応えられるかどうかは心許ない。子どもの道徳に関わる喫緊の課題を突きつけられ、家庭も地域もそれに呼応して変貌を遂げ、学校とともに成長し続ける、そのような理想的なスパイラルが求められよう。