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現代日本の仏教とジェンダー ― 龍谷大主催ワークショプから

2015年1月30日付 中外日報(論)

尼僧に社会的宗教的痛み

曹洞宗東昌寺住職 飯島惠道氏

いいじま・けいどう氏=1963年生まれ。信州大医療技術短期大学部看護学科卒、愛知専門尼僧堂で修行。駒沢大、同大大学院修士課程修了。看護師として諏訪中央病院緩和ケア病棟などに勤務。信州大大学院修士課程修了。花園大非常勤講師。前全日本仏教会社会人権審議会委員。女性と仏教東海・関東ネットワーク会員。

昨年7月19日、龍谷大学アジア仏教文化研究センター主催のワークショップ「現代日本の仏教とジェンダー」に参加した。筆者は、2008年の夏、築地本願寺において開催された「おんなたちの如是我聞 ジェンダーイコールな仏教をめざして」にもシンポジストとして登壇させていただいた。あれから6年。理想を言うならば、この間に、「仏教とジェンダーに関して、こんなにも進展があった」とご報告申し上げたかったが、残念ながらそれはかなわなかった。発表内容は、前回と大きく違わない内容となった。

2008年のシンポジウムでは、控えめに、筆者が住職を勤める寺がある地域の現状を伝えたが、今回は具体的な事例を挙げて発表した。さらに今回の発表の内容を考えるうちに、筆者はあることに気付いた。筆者が「仏教僧侶として生活を営む上で、ジェンダー不平等を感受することは、自分にとっての社会的・宗教的痛みになっている」ということだった。

「社会的・宗教的痛み」という言葉は、主にがん等を患う患者が抱える四つの痛みという文脈で使われることが多いが、前述の「痛み」に関しては、がん患者に限らず、身体的には特に疾患を持たない状態であっても抱える可能性がある「痛み」であるといえよう。

宗教者として社会生活を営む中で、殊に「女性である」ということで抱えざるを得ない「社会的・宗教的痛み」は、現代社会にあっても確かに存在する。かつて「八敬法」というものがあったが、筆者が属する宗派においては、尼僧の「尼」が削除され、嗣法が許され、制度上では「男女平等」になったといえる現代社会にあっても、「八敬法」に準ずる行為はそのまま残っている。筆者が住む地域にも、色濃く残っている。これこそ筆者にとっての「宗教的痛み」である。

筆者の所属宗門においては、多くの場合、尼僧と男僧は生活領域を別にしている。しかし男僧と寺族は生活領域を共有している。ゆえに、男僧と寺族の間では情報共有が行われやすいが、尼僧にはその情報が伝わらないことが多い。この点では筆者は「情報弱者」ともいうべき痛みを感受している。これも一つの社会的痛みである。

このような痛みを「ジェンダー関連痛」と呼びたいと考える。ジェンダー不平等な現状に関しては、地域差が大きいとは思うが、法要においては、年配の尼僧といえども、本山から帰って間もない男性僧侶の下に立ち、控室では尼僧が率先してお茶をいれる。このような光景はあまりにも当然過ぎて、誰も疑問視していない。法要で尼僧が後ろの方に立つのは、本山での修行経験が無いことにも起因している。進退において自信がないから目立たないように後ろに立つ。それも一理ある。これは修行段階での教育の問題でもあるし、「尼僧の本山安居」がままならない現状にも問題がある。

筆者が属する地域の青年会の集まりでも、この内容をレポートしたが、若手の僧侶の多くは、筆者の指摘した点について気付いていなかった。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言ったが、まさにジェンダーに関しては、当事者以外は「無関心」に通り過ぎている。しかし、当事者(ここでは尼僧)は「社会的・宗教的痛み」を抱えたまま仏教者としての人生を終えることになる。先輩の尼僧たちがそうしてきたように、筆者自身もそのようにして人生を終えなければならないのか。

ワークショップの最後に、コメンテーターの川橋範子氏は「ジェンダーは女性だけの問題ではない」と語った。同感である。今後、社会における「ジェンダー関連痛」の解消に向けて、男女ともに語れる時代が到来することを祈るのみである。

教団変革、女性もっと活用を

名古屋工業大大学院教授 川橋範子氏

かわはし・のりこ氏=1960年、東京生まれ。プリンストン大大学院博士課程修了。Ph.D.。日本宗教学会理事。国際宗教研究所評議員。女性と仏教東海・関東ネットワーク会員。曹洞宗寺族。主な業績に『ジェンダーで学ぶ宗教学』(田中雅一氏との共編著、世界思想社、2007年)、『妻帯仏教の民族誌 ジェンダー宗教学からのアプローチ』(人文書院、2012年)など。

ワークショップのコメンテーターとしての感想を簡単に記してみたい。ジェンダーは、社会や文化が規定する、男はこうあるべき、女はこうではいけない、などの性別にまつわる役割規範を含んでいるが、「ジェンダーの視点」は、単なる女性中心の視点と同義ではない。女性を抑圧する男性中心主義の価値規範は、それに適合しない男性たちにとっても生き難さを生む。たとえば男性僧侶にも、結婚を当然の義務とされることに抑圧を感じる人がいる。ジェンダーに敏感な視点は、仏教界の周辺に位置する人々(そしてこれは多くの場合女性である)の声に耳を傾け、教団が変革されるべきであると示唆するのである。

近年、海外の研究者の間での、このようなジェンダーと仏教に対する学問的関心の高まりは一層顕著である。筆者もアメリカは言うに及ばず、マレーシア、ドイツ、スウェーデンなどの研究者たちから、日本の仏教とジェンダーの現状について問い合わせを受けている(本紙2013年6月29日号「論・談」掲載の拙稿を参照)。実際、今回の登壇者の一人であったマーク・ロウ氏(マクマスター大学准教授)は、教団の女性僧侶たちの多くが、中央には位置せず周辺におかれているため、かえって教団内の力の不均衡や矛盾、また宗門内の政治の愚かさがよく見えている、と述べた。ロウ氏の、男性の現代仏教のイノヴェーター(刷新者)は教団やメディアでもてはやされるのに対して、女性である場合は、うるさいことをいう連中と邪魔者扱いされるように見受けられる、という二重基準の存在の指摘は痛快であった。

このような見方に反して、肝心の仏教教団は、ジェンダーの問題に冷淡とまではいかなくとも、さほど関心を示していないのである。特に尼僧の窮状に関しては、どの教団も制度上の差別はなく、今の時代に尼僧差別など存在しない、と表明しているのは理解しがたい。アジアの国々と異なり、一般に僧侶が厳しい行や戒律を守ることの少ない「妻帯仏教型」の日本仏教にあっては、男性僧侶から見た尼僧は、自らの俗人性を映し出す鏡であり、彼らにとっては望ましくない存在でもある。飯島氏が述べるように、この状況では伝統的出家型の尼僧は、ますます周辺的な存在とされていく。また、最近の各教団における寺族や坊守などの男性僧侶の配偶者の教義的正当性や制度上の位置づけをめぐる議論は、妻帯のもう一方の当事者である配偶者女性の主体性を無視し、彼女たちの頭を飛び越えたところでの議論に終始することが多い。この顛末が、「僧侶が妻帯する非出家型の日本仏教は、進化した仏教であり誇れるものである」という、現状肯定の物言いであろう。

現在、日本ではいわゆる「ジェンダー主流化」の動きが経済界や政界などで盛んに報じられ、指導的立場に占める女性の割合を国際水準に見合うように高めるための努力が求められているのは周知の事実だ。しかしながら一例として、全日本仏教会の各種委員会における女性委員の数は、筆者たち2人が委員の任期にあったころに比べて減少しているのである。高学歴の尼僧や顕著な社会活動で知られる女性仏教者が増えている現在、これでは仏教界の貴重な資源を活用していないことになるのではないか。

今回のもう一人の登壇者の本多彩氏(兵庫大専任講師)は、本願寺派寺院の長女に生まれた有髪の女性僧侶で、飯島氏とは外見上も立場を異にしている。しかし、彼女たちが違いを超えて連帯し共感できるのは、ともに教団の中で周辺化されたものとして「ジェンダー関連痛」を経験してきたからである。筆者は当日、フロアの女性仏教者や研究者の発言に励まされ、教団という境を超えた女性たちのネットワーキングの力と意義を再確認した。このような挑戦的なワークショップの場を提供してくださった桂紹隆先生をはじめとするアジア仏教文化研究センターに心からの感謝を申し伝えたい。