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終戦70年に憶う ― 「忘れてはいけない」先人の願い

「宗教者九条の和」呼び掛け人世話役 小野文珖氏

2015年1月7日付 中外日報(論)

おの・ぶんこう氏=1948年生まれ。立正大大学院仏教学専攻博士課程修了。元立正大教養学部助教授。「お題目九条の会」呼び掛け人。栗須祖師堂堂守(妙法結社教導)。NPO法人「T・M良薬センター」代表。著書に『日蓮にきく』『日蓮考』など。
石橋湛山の終戦演説

昭和20年8月15日の『石橋湛山日記』を読む。

「本日正午、天皇の玉音に依って、停戦発表。午後三時より予ねての招待に依り、横手経済倶楽部の有志を支局に集め、新事態につき講演す。

○ 講演 更生日本の針路」

その講演の内容は、「新しい日本の前途は実に洋々たるものがあります」とはつらつとした態度と口調で、明るく前向きで希望に満ちた演説だったそうで、敗戦の事実に茫然自失して集った聴衆を唖然とさせたという(田中秀征著『日本リベラルと石橋湛山』)。

満60歳、日蓮宗の寺院出身のジャーナリストは、この日を待ち望んでいた。「考へて見るに、予は或意味に於て、日本の真の発展の為めに、米英等と共に日本内部の逆悪と戦ってゐたのであった。今回の敗戦が何等予に悲しみをもたらさざる所以である」(『日記』8月18日)。日本で最も早く敗戦を予見していた男であった。社長をした「東洋経済新報社」の社説に、植民地を手放せと、堂々と「小日本主義」を掲げていた硬骨の言論人で、度々の削除、発禁処分の官権からの弾圧に耐え、不屈の闘志で自由を守り抜いたリベラリストである。

「言うまでもなく日本国民は将来の戦争を望む者ではない。それどころか今後の日本は世界平和の戦士としてその全力を尽さねばならぬ。ここにこそ更生日本の使命はあり、またかくてこそ偉大なる更生日本は建設されるであろう」(「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」―『湛山全集』)

この終戦直後の、国民への「檄文」によって、湛山氏は、言論人から政治家へ道を踏み出す。日本再建のリーダーをめざしたのである。第1次吉田内閣の大蔵大臣として新憲法に署名、鳩山内閣の通産大臣を歴任して、昭和31年12月23日、内閣総理大臣に就任する。惜しくも病のために2カ月で総辞職をするが、彼の強烈な日本再建の情熱は、戦後の日本の復興に大きく貢献したことは間違いない。特に経済面で彼のケインズ経済学の更生日本の青写真が、モデルとなったことは特筆できるであろう。ただし、国際政治面で彼の描いた理想図は頓挫している。

湛山氏は、日米中ソの「四国平和同盟」構想をもって外交の指針とした。いわゆる「平和共存」路線である。世界は冷戦時代に突入し、反対の方向に向かっていたが、彼は周恩来首相との面談で意志を統一し、ソ連のフルシチョフ首相にも呼びかけていた。「湛山は過剰な国家エゴが世界や人類を滅し、過剰な地域エゴが国を滅してしまうことを知っていた」(前掲田中秀征著)

彼の模索していた「集団安全保障」と安倍総理が強引に容認しようとしている「集団的自衛権」の行使は真逆である。湛山氏の平和共存政策は、後継首相の岸信介氏の「日米安保条約」によってほごにされた。安倍氏はその岸氏の日米軍事同盟を強化することを使命とした孫である。

しかし、冷戦はもう終わっているのである。日本国民はもう一度、湛山氏の集団安全保障に耳を傾けるべきであろう。周辺諸国との平和共存こそが、日本の歩んできた70年の道であると考えるがどうであろうか。アベノミクスに騙されてはいけない。

沖縄の翁長新知事のスローガン

昨年11月16日、沖縄県知事選で初めてオール沖縄で翁長雄志氏が当選した。終戦70年の沖縄に新しい風が吹きだした。翁長氏の選挙スローガンは「誇りある豊かさを!」であった。「子や孫のために禍根を残さない」が合言葉である。10万票もの差をつけて、新基地建設を容認した自民党候補に勝利した。沖縄県民の明確な判断が下されたのだ。しかし、政府はそれに対して衆議院解散で応じた。沖縄の新基地建設はすでに過去のこと、決まったことをそのまま実行する、という態度である。かつての琉球処分と同じ構図である。この問答無用の本土の権力者に、沖縄の県民はNOをつきつけたのである。

本土の人間には、沖縄は基地で食べている、という差別的な誤解がある。しかし、翁長氏は今度の選挙で、「米軍基地は、沖縄経済発展の最大の阻害要因である。基地建設とリンクしたかのような経済振興策は、将来に大きな禍根を残す」(選挙チラシ)と、基地返還後の牧港地区の目覚ましい発展を例にあげて、具体的数字をもって、「沖縄は基地がなければ暮らしていけない」というような偏見を打破した。それが「誇りある豊かさ」なのである。「経済と生活」か、「平和と尊厳」かで対立してきた沖縄の歴史に、「経済と生活」も「平和と尊厳」も同時に両立できる道を示し、子や孫たちのために、新しい沖縄の未来を切り拓こうと訴えて、県民の絶大な支持を得たのである。

終戦時の沖縄戦で、本土の防波堤となって20万人を超える犠牲者を出した沖縄は、その後も戦争が終わっていなかった。70年も経ってしまった。もう「戦後」を終わらせてあげたい。美ら島の海を見る度に切に思うのである。

「記憶 反省 そして友好」碑

筆者の住んでいる群馬県には「群馬の森」と呼ぶ広い公園がある。その一角に10年前に「過去を忘れず、未来を見つめ、アジアの平和と友好を築くために」と、戦争中、日本政府の労務動員によって朝鮮半島から連れてこられ、不幸にして命を落とされた方々の追悼の碑が建てられた。その碑文の末文に、

「過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである」と刻まれてある。

すばらしい趣旨の記念碑であると思っていたが、実は今、この友好の碑が撤去される寸前にある。「ネット右翼」と呼ばれる人々が騒ぎ出し、政治家や県庁の職員を巻き込んで、「不愉快である」という理由で陳情をし、県議会で採択され、昨年7月22日に撤去命令が出されたのである。これに対して、追悼碑を守る会が結成され、県と交渉をしてきたが、とうとう去る11月13日、撤去差し止めの裁判に訴えることになった。

この、「記憶・反省」への逆風は日本国中で吹き荒れているようで、終戦70年、「戦後レジーム」からの脱却という掛け声で、日本の恥をさらすなと、隠蔽・忘却の作業が着々と行われている。ドイツの戦後が「想起」の社会といわれるのに対し、日本の社会は「忘却」の文化。このため、ドイツは周辺諸国との戦後処理がいち早く終わり、関係改善が進み、信頼関係が生まれているのに、日本は、まだ中国・韓国・朝鮮と大戦の清算ができていない。不信感を抱かれたままなのである。この「追悼碑裁判」が新たな火種にならなければよいが。

この70年はなんだったのであろうか。多くの先人たちが、平和憲法を守って、二度と戦争はしないと、国際社会に出て行ったが、その苦労と苦心がここに来て水の泡となってしまうのであろうか。

歴史修正主義者なる者たちが、証拠がないからと、歴史を捏造しようとしている。都合の悪い記録を焼却し、証拠隠滅を図ったのはお前たちではないのか。

群馬県みなかみ町の如意寺に、強制連行で亡くなった53人の中国人のことを記した木版が掲げられている。当時の住職はその末尾にこう記した。

「何年後といえども、この札を取り去るべからず」

忘れてはいけない。忘れてはいけない。忘れてはいけない……。