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1.前向かせてくれた被災住職

2015年3月6日付 中外日報(5度目の春へ-東日本大震災)

最期の場に娘を感じ 震災語れる民宿開業

民宿「未希の家」の前で、「ここは娘と共に生きていく供養の場です」と話す遠藤美恵子さん(2015年2月、宮城県南三陸町で)
民宿「未希の家」の前で、「ここは娘と共に生きていく供養の場です」と話す遠藤美恵子さん(2015年2月、宮城県南三陸町で)

宮城県南三陸町の遠藤美恵子さん(57)は震災当日、町職員の長女未希さん=当時(24)=が防災無線で避難を呼び掛ける声を聞いた記憶がおぼろげだった。黒い壁のような大津波に、夫清喜さん(60)とそれぞれに高台に駆け上がった際は無我夢中。気が付いた時には、無線放送は途絶えていた。

「きっとどこかへ逃げている」。その願いは日を追って不安に変わった。自宅も家業の養殖の設備も被災し、避難所から遺体安置所に通ううち、4月23日に数百メートルもの沖合で未希さんの遺体が発見された。彼とそろえで足首に巻いたお守りの赤いリボンで身元が確認された。「お帰り、ご苦労さま。ありがとう」。そう言うしかない父母の苦しい日々が続く。家族には「掛け替えのない娘を失った」ということ以外の何物でもなかった。

5月4日に、近所の曹洞宗寺院で葬儀が行われた。未希さんを子供の頃からよく知る住職(65)は「若かったのに、つらいことですね」と心から言葉を掛けてくれた。「庫裡は被災し、お兄さんも亡くされたのに。その痛みがあるから分かってくれたのでしょう」と美恵子さんは言う。

以前から年に何度か念仏講の集まりが寺であり、住職とは気心が知れていた。気位が高くなく何でも相談に乗ってくれる住職は、地元の荒っぽい言い方で親しみを込めて「ばか和尚」と呼ばれていた。「納骨もゆっくりでいいよ」の言葉に気が休まり、前を向けたという。

未希さんの最期の場となった防災対策庁舎の残骸は、震災の記憶をとどめる慰霊施設のようになった。理不尽な死に直面した職員遺族らも含めて、その保存には賛否があり、行政の対応も二転三転した。美恵子さんも一時は近づくこともできず、心が揺れた。だが各地から多くの人々が来て犠牲者の冥福を祈る姿にも接し、「行くと娘を感じます。皆を助けたいという娘たちの思いが詰まっている」と感じ、今は残してほしいと願う。

「未希が命を失いながら訴えたこと。津波の教訓、いのちの大切さを語り伝える」、それが残された親の義務だという気持ちから、夫婦は昨夏、民宿を開業した。「未希の家」。1日に1組と決めた客に震災の事を話し、ベランダからは美しい海が見える。

住職はその後も仮設住宅から通い、また一家が墓参りに行くたびに声を掛けてくれた。昨年の盆には恒例の灯籠流しが行われ、住職の読経に、遠藤家をはじめ震災犠牲者も含めて地区の100余りの家庭の灯明が湾に浮かび、皆で合掌した。そのような区切りの行事が人々の悲しみを少しずつは癒やす。「ばかなりにやりますよ」。そんなことを言う住職を美恵子さんらは信頼している。

この2月、美恵子さんらが隣組で寺の掃除に集まると、住職がお茶を出してくれた。だが間近に4周年が迫った震災の話ははばかられた。「町内の人には苦しいとか悲しいとか言えないです。皆互いにつらいですから」。民宿の部屋で美恵子さんの顔が曇った。「贅沢もしなかったけど、親子で一緒にご飯を食べる。それが良かったのに……」。友達のような母娘は最近まで一緒に家の風呂に入ったという。一人で湯船につかると、その大きさを感じて美恵子さんは涙をこらえ切れない。

そんな娘への思いを、母は震災以降の日記を基に本にまとめた。『虹の向こうの未希へ』。そこに、あの日から「開かずの間」にしていた未希さんの部屋から古い手紙を見つけたエピソードがある。20歳の記念にしたためたそれには、津波でにじんだ字でこうあった。「苦しいことやつらいことをのりこえて ほっとした時 心に浮かぶのはこの一言です 母さん、私を生んでくれてありがとう」

最後になったあの夕方、美恵子さんは結婚準備の件で「ごめんね。何もしてやれないこんな親で」と謝ったという。「でも、この手紙がその返事だと思います」。本のまえがきにはこう書いた。「お母さんを選んで生まれてきてくれてありがとう」。そして続ける。「また家族になれる日まで頑張って生きていきます」

人々のこのような物語が、1万8千余人の犠牲者の数だけ今も息づいている。

(北村敏泰)