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多くの出会いが力に

総本山大念仏寺法主 倍巌良舜氏

2015年1月23日付 中外日報(わが道)

ばいがん・りょうしゅん氏=1922年、奈良市の法徳寺に生まれる。44年、龍谷大卒。在学中に学徒出陣を経験した。宗門では宗議会議員や教学部長、融通念仏宗の中祖・法明上人650年御遠忌奉修局委員長などを歴任し、2006年から同宗管長・総本山大念仏寺(大阪市平野区)法主。著書に故高田好胤・法相宗大本山薬師寺管主との交流をつづった『好胤と倍巌』。
故高田好胤管主から贈られた薬師如来像に触れながらほほ笑む倍巌氏。現在も同管主の月命日の読経を欠かさないという(奈良市・法徳寺本堂)
故高田好胤管主から贈られた薬師如来像に触れながらほほ笑む倍巌氏。現在も同管主の月命日の読経を欠かさないという(奈良市・法徳寺本堂)

自他相互の念仏による融通和合を説く融通念仏の要諦を「互いに刺激し合うことでさらに力が出てくる」と語る。満92歳。振り返れば、多くの人々との出会いから様々な力を得てきた。今年5月には大阪市平野区の総本山大念仏寺で開宗900年記念・大通上人(同宗再興の祖)300回御遠忌大法要を控え、先師への報恩感謝の思いもひとしお。「大法要をしっかり勤めたい」と力を込める。

(池田圭)

珍しい名字ですね。

倍巌自坊・法徳寺の初代住職が倍巌上人という方で、明治時代にそのお名前を頂いたそうです。難しい漢字なので小学生の頃は書けなくて困りましたね(笑い)。

龍谷大在学中に学徒出陣を経験された。

倍巌学部2年の1943年12月に召集され、高射砲兵になりました。配属されたのは(夜間戦闘で敵を照らす)照空砲です。京都の物集女で終戦を迎えました。

当時は軍事一辺倒で学徒出陣は「しゃーないなぁ」という感じでしたが、鉄砲を撃ったり、銃剣で闘うのは嫌でした。照空砲は直接人を殺すものではありません。幸い一度も戦闘に遭遇することもなく、よかったと思いました。

終戦後は食糧難に困りましたが、50年に朝鮮戦争が始まると景気が良くなり、生活も改善。戦争によって苦しみ、戦争のおかげで生活が良くなる。皮肉な時代でした。

特に法相宗大本山薬師寺の故高田好胤管主と親交が深かったそうですね。

倍巌彼は龍谷大の2年後輩で、私が予科3年の時に入学してきました。初めての出会いは近鉄奈良線の通学電車の中。気が合ってお互いに法徳寺と薬師寺を行き来するようになりました。

彼はとにかく社交的で、非常に人を引き付ける力を持っていた。大いに見習いたいと思いました。人の名前をよく覚えていて、大勢を前にした講演で「○○さん、よく来てくれたな」と声を掛ける。その人はファンになるんです。

薬師寺では金堂の復興を写経勧進でやりたいと言いだした。再建費は10億円。1巻千円の納経料で100万巻集めるという目標を立てた。

私も含めて周囲は「写経もよいが、やはり大企業などから寄付を募るべきだ」と言ったのですが、「みんな観念で言っている。私は信念で言っているんだ」と思いを貫いた。すごいことです。「あなたはできないと言ったが、信念の方が勝った」。100万巻を成し遂げた後、夜中にそう電話がかかってきたことを今でも覚えています。

融通念仏の要諦は。

倍巌自分が念仏を唱え、またみんなの念仏が自分に返ってくる。例えば、甲子園で阪神タイガースを大勢の人が応援している。一人の応援が一人一人の心に届き、また大勢の応援が自分に返り、互いに刺激し合ってさらに力が出てくる。そうして相互に融通している感覚だと思います。

個人主義が蔓延する世相ですが、自分のことだけではなく、絶えず他のことも考え続けることが大切だと思います。

5月に開宗900年記念・大通上人300回御遠忌大法要を控えています。

倍巌開宗900年に関しては融通念仏宗が庶民仏教の先駆けとなったことを強調したい。そして大通上人への報恩感謝を一人でも多くの方に伝えたいです。

宗祖良忍上人は平安時代末期に比叡山や大原で勉強と修行に励まれますが、民衆教化が最も大事と、京都や大阪に出て融通念仏の弘通に力を注がれ、大阪・平野に根本道場の総本山大念仏寺を創建されました。

良忍上人の弟子の叡空上人の弟子が、浄土宗を開いた法然上人。さらにその門下から親鸞聖人が出るなど仏教は庶民にも浸透していきました。その意味で、良忍上人は庶民仏教の最初の人であり、鎌倉新仏教の素地をつくったと言えると思います。融通念仏宗は「国産仏教第1号」とも呼ばれています。

他方、大通上人は元禄時代に活躍された方です。当時の宗門は疲弊しており、天台宗系の一派という扱いでした。上人は教学の確立や大念仏寺の伽藍整備、本山末寺の関係強化、法要・儀礼の復活などに取り組む一方、再三にわたって江戸に赴き、一宗として認めてもらえるよう寺社奉行と交渉を重ねて再興に尽力されました。当時、大阪では「江戸と背中は見て死にたい」というほど江戸に行くことは大変なことでした。不屈の力を感じます。そうした先師の事績から私自身、力を得ている面もあると思っています。今回の節目の大法要をしっかりと勤めたいです。