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人生変えたダリの一言

日本画家 浜田泰介氏

2012年8月2日付 中外日報(この道を往く)

はまだ・たいすけ氏=昭和7年、愛媛県生まれ。滋賀県在住。京都市立美術大大学院を修了後、同36年から2度にわたり渡米。前衛的な抽象画で注目を集める。帰国後は日本画に転向し、「日本百景」「四国八十八ヶ所霊場めぐり」「大津百景」など風景画の連作を収めた画集を刊行。一方で大覚寺、醍醐寺、東寺、伏見稲荷大社、上賀茂神社、石清水八幡宮などにふすま絵や障壁画を奉納してきた。
人生変えたダリの一言浜田泰介氏

大覚寺や醍醐寺、東寺、伏見稲荷大社など京都の有名社寺に絵画を奉納してきた日本画家の浜田泰介氏(80)。学生時代に日本画を学び、若いころは前衛的な抽象絵画を描いてアメリカ滞在中に注目を集めたが、40代を前に日本画に再転向。日本に帰国後は既成画壇とは距離を置き、独力で自らの絵画表現を磨いてきた。そんな孤高の画家を日本画に回帰させたのは、サルバドール・ダリが与えた一言だったという。

(聞き手=闇雲啓介)

画家を志したきっかけは。

浜田実家は愛媛県宇和島市の料亭だったのですが、両親は子供のころに亡くなりました。絵だけは得意だった私のために、母が生前から用意をしてくれていたおかげで、京都市立美術専門学校(現在の京都市立芸術大)に進むことができました。画商の伯父がいたことも、絵画を志すきっかけになったかもしれません。

学生時代は、かなり破天荒だったとうかがいます。

浜田なにせ入学試験のデッサンの課題で、消しゴム用のパンを食べてしまったのですから、あまり褒められたものではありませんね(笑い)。面接で、入学の動機を聞かれ「先生たちよりは偉い画家になるためです」と答えると、後に文化勲章をもらうような先生方に大笑いされました。

はじめから日本画を目指したのですか。

浜田日本画科に入ることは入ったのですが、いろんなことをやりましたよ。洋画に染色、陶器に彫刻……。大学には専攻科(大学院)も合わせると8年いました。日本画で入ったのに、卒業するときには抽象画をやっていましたね。

卒業後はアメリカで活躍されます。

浜田京都市役所の近くで古美術などを扱っていたジャパン・アート・センターに抽象画を持ち込んでいたのですが、これがよく売れたんです。29歳のときカーネギー財団の招きで初めて渡米し、カリフォルニア大バークレー校で勉強していました。

一時帰国してから3年後、今度は、帽子デザイナーとして成功したリリー・ダッシェの招きで、再び渡米することができました。彼女はサルバドール・ダリやイサム・ノグチを支援していたことでも知られているのですが、ボストン近郊の彼女の別荘をアトリエとして使わせてくれました。

アメリカの生活は刺激的でしたよ。それまで、まったく見向きもされなかったポップ・アートの巨匠ラウシェンバーグが報道をきっかけに、一夜で成功を収める様子も間近で見ていましたから。

抽象画で成功を収めていたのに、なぜ日本画に転向したのですか。

浜田ダリの一言がきっかけです。リリーの紹介でダリに会うことができたのですが、ダリは会うなり「何か描いてみろ」と言ってきました。紙と筆、墨は持ち歩いていたので、さらさらとバラの花を描いてみると、気に入られたようで「これだけ描けるのに、なぜ日本でやるべきことをやらないんだ」と問われました。 

ポップ・アートはファッションと同じで、いま流行しているものが来年も流行するとは限らない。そう諭され、帰国して日本画に取り組むことを決意しました。

大きな転機でしたね。帰国後は、寺院のふすま絵なども多く手掛けられています。

浜田アメリカで知り合った真言宗僧侶の阿刀暹涯さんと、在日アメリカ大使館でばったり出会ったことがお寺との縁になりました。大覚寺に連れられ交流を深めているうち、弘法大師1150年御遠忌(昭和59年)の記念品として水彩画千枚を描くよう依頼されました。だけど、締め切りまでわずか15日しかない。先方もきっと無理だと思っていたに違いないのですが、描き切ってやりました。皆さんは版画だと思ったようですが、絵だと気付くと驚いていました。

大覚寺では、庭湖館のふすま絵も手掛けておられます。ヨットをモチーフにするなど、従来のふすま絵とはかけ離れた作品ですね。

浜田それまで、琵琶湖疎水を建設した田辺朔郎博士が写経した般若心経がふすまに描かれていたので、琵琶湖の風景を取り入れようと考えました。いわゆる旧態依然とした花鳥風月でなく、現代風なものをと考えた結果、ヨットを浮かべることにしました。しかし今でこそ評価していただいていますが、当時は散々な言われようでしたよ。

醍醐寺三宝院のふすま絵も見事です。

浜田豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」をテーマにしてほしいということだったので、国宝の五重塔の前に咲く桜と散る桜の両方を収めました。この時は紙がない、資金が足りないなどのトラブルにも見舞われましたが、7年がかりで114枚を仕上げました。

自分自身が気に入っているのは、東寺大日堂の障壁画でしょうか。花をつける前から枯れるまでの蓮を描いたのですが、四季と生死をうまく表現できたと思っています。

今後の画業の抱負は。

浜田私はこれまでほとんど画壇に所属せず、絵だけを生業としてきました。そう言うと「芸術家が商売をするな」と批判されたりするのですが、売れなければどうしようもない。今でも大小含めて、年間100点ぐらいは作品にしています。

私も今年で80歳を迎えました。余命を考えるとあまり長くないのかもしれない。しかし奥村土牛は70歳を過ぎて、ようやく富士山を描けるようになったと言ったそうです。今までたくさん描いてきましたが、まだまだ物足りない思いがします。息の続く限り好きな絵を描き続けたい、新たなひらめきに出会いたいと考えています。