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東日本大震災と宗教者 「教団アンケート」から

教えの実践として支援――自発的「感謝の心」で

2011年9月27日掲載

中外日報社による東日本大震災教団アンケートでは、神道や新宗教、キリスト教などの教団の支援活動に対する宗教者としての姿勢も明らかになった。中でも在家信者中心の教団では、日常からさまざまな社会活動をしていることにも関連して、伝統仏教とは異なる姿勢が特徴だった。

信仰や教義から震災での支援活動、ひいては社会活動をどのように位置付けるのか。

例えば、カトリック教会は「キリストの教えを真摯に実践すれば、信仰と実生活(社会活動)を分離して捉えることは矛盾だ」。創価学会は「信仰生活は社会生活と乖離したものではなく、信仰の価値は社会生活の中でこそ発揮されるべきだ」と明確にコメントした。

実際に、取り組みと教えとの関係、つまり「なぜ宗教者として支援するのか」について、神社本庁は「皇運の隆昌と氏子・崇敬者の繁栄を祈念することを本義とする」精神の具現化、と回答。

真如苑は、日常から「四無量心」の実践として「社会生活の中で慈悲喜捨の大乗菩薩の実践行」を重視しているという。立正佼成会は「諸法無我」の教えを基に被災者を「家族」と捉え、「同悲同苦」の精神で、支援というより「家族の営みの延長」と考える。

創価学会は、日蓮仏法の教義、慈悲の精神に基づき「自他共の幸福」を目指している。

他の、「神」を崇敬する教団は趣旨が異なる。金光教は「人間を救い助けたいとの絶大な神様の思い」にどう応えるか、とりわけ同教団の「取次」という精神的支えを軸に、「人が人を助けるのが万物の霊長たる人間」とし、自発的な支援活動は「神心」の現れ、信心実践と捉えている。

天理教では、活動は立教の本旨である「陽気ぐらし世界の実現」推進の一つの形であり、「体を借り、守護されている神恩」への感謝の心からの「ひのきしん」と説明される。

一方、日本基督教団は教会の本質的働きの中に位置付けられた「奉仕」が「聖書的信仰から押し出された行為」であることを重視、一般的な善行でも信仰と切り離されたものは、人間中心の「神なきヒューマニズム」として警戒するという。

それぞれ社会全体を揺るがすこの事態に、教団のアイデンティティーを踏まえてどう向き合おうとしているかが見える。

また、この大災害自体の「意味」について、金光教が「人智を超えた畏怖すべきものが歴然と存在する」と人間中心主義の問題点を指摘。

神社本庁は、神社信仰が「数多くの災害を心を合わせ智恵を出し合って乗り越えて来た先人たちの社会意識を基盤とし、長い歴史の中に受け継がれている」と説明した。

一方で、活動の中での信仰者としての「自己」の捉え方が明示される。真如苑は、所依の経典である「大般涅槃経」による「仏性」をみがく機会であるとし、「常楽我浄」の精神を身に表す実践と位置付けている。

立正佼成会は「(被災者と)お互いが明るく優しく温かい人間に成長できることを願い」、金光教は「人間は災難の時に神に助けてもらう。人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ」という教えだ。

天理教は「感謝の心から出るひのきしんは、おのずから行動となって表れ出る」。創価学会は、各人が成長し主体性を持って生きることの可能性、力が「生命に内在」し、その力で被災者も自ら救援者となったという。

それぞれの信者個人が、実際にこれらの教えに根拠を得、それが現実の行動の原動力になれば信仰の大きな力と言え、ひいては他者からも理解や共感を得るだろう。

支援活動の中で「宗教者らしい」取り組みについては、カトリック教会が「祈ること、希望すること、寄り添うこと」などスピリチュアルな面を挙げ、立正佼成会や金光教なども「心」の回復や自立の支援を視野に入れている。

ただ、日本基督教団は「信仰と善行との混同を避けているため、『宗教者らしい活動』という概念を持つのは困難」と留保。他宗教との協働も「単に宗教者であるという理由だけでは安易には進まない」と答えた。

各教団の回答に共通するのは、これらの教えの概念が災害という非常時に限らず、普段からの社会活動、さらには日常生活そのものでも「規範」「指針」として意識されており、実際に行動に表されていることが少なくないという点だ。

しかし、特に新宗教などで「信仰復興」が言われる中、このような姿勢が布教や信者の拡大、教勢の拡張との関係でどう整理して認識されるかは今後の課題でもあろう。

支援活動に当たって教団名を出すかどうかという問題にも関連し、「布教を目的に復興支援を行うことは、あってはならない」と明言した教団もある。