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相対的剥奪感 比較の対象を換えよう

2017年6月14日付 中外日報(社説)

新約聖書のマタイ伝に、「持てる者はますます持ち、持たざる者は持てるものまで取り去られる」というイエスの言葉がある。これはタラントの譬えについての説教の最後で語られるものであるが、一般にはこの部分だけが「マタイの法則」という形で強調され、社会の格差拡大を説明するものとして引き合いに出されるようになった。

イエス自身はもちろんそんな意味で言ったわけではない。むしろ、自分に与えられた財(能力や才能という賜物)はどんなに少なくても、それを後生大事にしまい込むのではなく、自ら努力して開発し積極的に伸ばしなさい。そうすれば主なる神に称賛されるということである。

我々は凡夫として、つい自分の置かれた状態や持ち物を他者と引き比べ、一喜一憂してしまいがちだ。最近ではSNSの普及により、そのような優劣意識を持って他者と比較する機会が増え、不平や不満を抱く傾向が強くなってきたように思われる。あの人は恵まれて良い思いをしているのに、なぜ私はそうではないのか。他者と比較することで、自分から何かが奪われているように感じることを、社会心理学では相対的剥奪感と呼ぶ。この相対的剥奪感に人々は少なからず苦しめられている。

しかし、他者と比較をすればきりがない。そもそも他者との比較をやめれば不平や不満は抱くまでもなく、羨望や嫉妬心も生じない。持てる者とはいえ、何もかも持っているわけではなく、持たざる者といっても、全く何も持っていないわけではない。他者との比較はどこまでも相対的なものだ。

なるほど、深刻化する格差によって、一握りの勝ち組と数多くの負け組が出現しているというのはその通りであろう。極端な格差は社会として不健全な状態であり、人々の連帯感を著しく損ないかねない。宗教者には、過度な競争に警鐘を鳴らし、勝者を戒め弱者をいたわることが求められる。

それと同時に、宗教者はまた世の中の運不運や幸不幸を相対化する視座を積極的に提示していくべきだ。そのためには人々に比較の対象を他者から自分自身へと向け直してもらうことが肝心である。

自分自身に立ち返ることで、初めて超越的存在である神仏と向き合うことができる。その中で今の自分を過去の自分と比較し、自分に与えられた賜物を今まで以上に伸ばしていくかを考えればよい。人々を神仏との関係へといざない、この世を自由な心で生きるよう導くことこそ、宗教者の使命なのである。