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「護憲」は古いか? 破局を繰り返さぬ覚悟

2017年1月3日付 中外日報(社説)

明治の思想家・中江兆民の晩年の著作『一年有半附録』に、自由民権論は「理論としては陳腐なるも、実行としては新鮮なり。実行として新鮮なのが、理論として陳腐なのは誰の罪か」(要約)という一文がある。藩閥政府の弾圧などで衰退した民権論へ、日本の帝国主義化で高ずる「国権論」の立場から向けられた「流行後れ」という嘲笑に兆民が答えたものだ。

今風に直せば「言葉(民権論)が陳腐に見えても、まだ実行されていない理論は新鮮である。それを陳腐なように見えさせているのは誰の罪か」となる(柄谷行人著『憲法の無意識』)。時流に迎合し「民権」から「国権」へと移ろう世の風潮を問いただしている。

この文章が今、改憲に前のめりの政治の思潮と重なる。憲法の国民主権、基本的人権、平和主義が施行70年を迎えても本来の理念通りに実行されない。安保関連法に続き安倍首相は昨年の臨時国会で自民党は「結党以来、強行採決をしようと考えたことはない」と言いつつ、生活に直結するTPP承認案、年金抑制の年金制度改革法案、カジノ解禁法案を次々強行採決した。国民主権の柱である国会が行政府の追認機関に堕した感がある。この一事だけでも憲法の危機は明白だが、加えて復古的な改憲潮流が勢いを増し、一方では護憲勢力が語る言葉が年々力をなくしていく。誰の罪だろうか。

先の大戦中の世相を見据えた自由主義評論家・清沢洌の『暗黒日記』が示唆に富む。早くに敗戦を予想し、破滅的な軍国主義は閉鎖的で画一的に服従を迫る教育に基礎を置くこと、日本の国民性は権力への批判精神に乏しく、時の勢いに流されがちなこと、英米は考え方が違っても愛国者で団結できるが、日本は一面的な価値観しか許容しないなど日本社会の特性や鋭い時局批判を日記につづった。

空襲で全土が焦土化しかねないのに本土決戦で神懸かり的勝利を叫ぶなど、軍部の言いなりの新聞にも厳しい批判を加え続けた。

問題は、日記に記す「負」の側面の多くが、根深い病理として今も世に潜むことだろう。懸念される教育への政治介入もその一つ。清沢は日本の政治風土に抗するには言論の自由が不可欠と力説する。現代批評かと錯覚したほどだ。

ともあれ、もう破局は繰り返せない。ヨハネ・パウロ2世は、かつて広島で「過去を振り返ることは将来に対する責任を担うこと」と説いた。未来を拓くため、今年は歴史に学び、時代の空気に鋭敏な年でありたい。憲法の「信教の自由」にも関わることだから。