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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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差異を特別視せず いのちの重さは等しい

2016年11月23日付 中外日報(社説)

「貧しい人、病人、非生産的な人も、いて当たり前だ。私たちは他者から生産的であると認められたときだけ生きる権利があるというのか。非生産的な市民を殺してもいいという原則ができ、実行されるならば、我々が老いて弱ったとき、我々も殺されるだろう」。これは、ドイツ・ナチ政権による優生思想に基づいた精神障害者の安楽死政策に公然と反対した当時のミュンスター司教、フォン・ガーレン神父の説教だ。

7月に「津久井やまゆり園」で起きた障害者大量殺傷事件の後、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられ、この言葉が再び注目されている。「いのちは皆、等しく重い」のは自明の理だが、様々な局面でそれが踏みにじられてきた。例えば我が国でも、1960年代に医師の太田典礼氏が高齢者について「社会に迷惑をかけて長生きしているものも少なくない。…もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは社会的罪悪であり、その報いが孤独である…」などと主張し、日本安楽死協会(日本尊厳死協会の前身)を設立した。

一方で、事件では犯行の原因を精神異常と決め付け、措置入院の在り方など精神医療を見直す動きもある。だが、医療は当然ながら当人の治療のためにあるのであって、基本的には社会防衛のための治安対策ではない。日本では64年のライシャワー大使刺傷事件の後、精神医療が治安・隔離性を強め、その流れの中で各地の精神病院で患者への暴行・虐待事件が相次いだ。その後も、凶悪事件のたびに無知と早計な判断で精神医療をゆがめる論議が蒸し返される。

今回の事件でも、容疑者の考えが極端に異常だからといって精神病とは限らない。精神医療が地域に開かれたものに改善されつつある近年の動きが、事件をきっかけに逆行することを憂う医療福祉関係者が多い。当の「やまゆり園」も、地元住民と交流するなどして多くの年月をかけ、地域と共にある障害者福祉を築いてきた。

「他と違っていることで不便はあっても不幸ではない」と当事者からよく聞く。障害者と健常者の垣根を越え、お笑いや悩み事を題材にするNHK番組「バリアフリー・バラエティ」が、民放の24時間チャリティー番組でことさら「障害者の感動的な姿」が取り上げられることに疑問を投げ掛けて話題になった。「かわいそうな人が頑張っていてすごい」というステレオタイプはもういいかげんに、と。他者との差異で人間を選別したり特別視したりしないことを、多くの宗教は教えている。