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自殺美化の危険 自分勝手に選べない選択肢

2016年9月30日付 中外日報(社説)

新聞などでは近年、自殺といわずに「自死」と言い換える傾向が見られる。刺激的に響く語を避けて穏やかな表現に修正することはよくある。本紙では自殺と自死を併用するが、「自死」と表記する場合、残された「自死遺族」の立場・人権を特に配慮している。

そのことも踏まえ、あえて指摘したい。「死」と「殺」は違う。「死」は自動詞だが、「殺」は他動詞である。病気や事故による死は病死、事故死といわれ「殺」は用いない。つまり「殺」は誰かの殺意と行為がもたらす死である。

すると自殺はやはり自「殺」であって、自「死」ではない。もともと生きとし生けるものは必ず死を迎える。生にとって死は当然であり自然ですらある。死とは、はじめから生に含まれる。人間の思うままにならない、頭を垂れるほかない厳粛な定めの現実化である。

道元が「生也全機現 死也全機現」という所以だ。「機」は法のはたらきのこと。良寛にも死ぬときには死ぬのがよろしいという言葉がある。生と死は対立概念、あるいは矛盾概念とさえ考えられているが、実は死は生の否定ではない。本来は生き了えること、生の完了である。それに対し「殺」は生の中断で、まだ完了しない生の破壊である。一切の事物の存在には必ず始まりと終焉がある。しかし終焉と破壊は同じではない。要するに生の否定は「死」ではなくて「殺」なのだ。

人がいつか死ぬのは致し方ないが、殺人はそうではない。罰しようがないから自殺罪はあり得ないが、自殺幇助は犯罪になる。私のいのちは私のものだから、どう扱おうと私の勝手だ、という人がいるが、とんでもない心得違いである。そもそも生命があって私があるので、反対ではない。生命は私が手に入れたり、自分で作ったりしたものとは違って、自分の所有物ではないから、自分勝手に処分してよいものではない。

「自死」とは「自分で死ぬこと」「みずから死を選ぶこと」という意味であるようだ。誰でも自殺を考えたこと、もう死んでしまいたいと思ったことがあるだろうし、自殺には他人には窺い知れない苦悩、同情すべき事情があるのだろう。しかし、死は来るもので、招くものではない。自分勝手に選んではいけない選択肢である。

「殺」と「死」は全く別物だ。親しい人の自殺を「自死」と考えたい心情は理解しなければならないが、それはやはり言葉の誤用であり、自殺という行為を美化する危険性もはらむのである。