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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教の「大きさ」 科学・社会との関わり

2016年9月9日付 中外日報(社説)

終末期医療や看取りなど医療現場に僧侶が関わる「ビハーラ」運動がスタートし、各宗派や各地の病院などに広がって30年。先日京都で開かれた「仏教看護・ビハーラ学会年次大会」でその展望が論議された際、運動の提唱者の田宮仁会長が「私は『ビハーラ』という考え方を否定し始めた」と発言したが、それは逆説的により深く幅広い仏教あるいは宗教の在り方を模索する重い問題提起だった。

従来は医療という近代科学技術の土俵に宗教が上がり、それにどう関わるかという発想だったが、これを根本的に転換し、宗教・仏教の考え方によって科学技術を領導するべきではないか、という視点の提起だ。これは何も医療にとどまらない。田宮氏が発想転換することになった契機の一つが福島原発事故であり、核兵器の破滅的脅威であるように、科学技術全てを別の価値基準で捉え直さねばならないということだ。宗教も科学も人間の幸せを目指し、確かに一定の成果を挙げてきた。しかし逆にそれによって人類が苦しめられるならば、歴史上、宗教改革があったように今、「科学改革」を起こすべきだと氏は主張する。

これを宗教側から見ると、例えば「仏教的ソーシャルワーク」などという言葉が先行するのでなく、仏教それ自体のやり方で世の中と人々の幸せと安寧を追求するということになる。

「宗教の社会貢献」をめぐる論議でも、宗教が「社会」の外部から働き掛けるという発想で論じられたり、政治や福祉、市民の力といった社会を動かす様々な「要素」の「一つ」として「社会資源」という表現がなされたりする。後者は社会との関係を学術的に検討する座標として有効だろうが、宗教者の側からは「宗教は社会全体を包含する」「仏法は国法より根本にある」と宗教を極めて大きなものと捉えるのが本来ではないか。独善ではいけないが、それは宗教というものが、全ての命、この世界全体を視野に入れ、対象化するだけの奥深いものであるはずだという立場に依拠する。

「ビハーラ」も広がりつつある「臨床宗教師」も、効果を挙げている運動に水を差す必要はないが、それらが現実の医療現場や行政などとの関係で有効に機能するための方途だと理解した上で、「そもそも宗教そのものが臨床ではないか」「あえて『ビハーラ僧』を名乗らねばならない現実が問題」といった見解にも意味がある。年次大会では「資格とかではなく仏教者としてただ務めを果たす、仏教そのものとして展開することが重要だ」との意見が注目された。