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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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いのちは神の領域 知性で処理できない価値

2016年8月31日付 中外日報(社説)

社会を震撼させた相模原殺傷事件の植松聖容疑者は重い障害がある被害者について、「生きていても仕方ない」と言ったと伝えられる。かつてナチは同様の「価値観」から劣悪有害と見なされた民族や思想の持ち主の抹殺を図り、断種も行った。いまでも、ひそかに同様の意見を持つ人が存在することは、どうやら否定できない。

この事件の報に接した人々の多くは「いのちの尊さ」について考えたと思われる。「尊さ」もまた、価値の一形態と見られがちだが、実は「尊い」ものは価値の序列に組み込めないという方が正しい。何もかもが商品化される現代でも、「尊さ」は価格では表現できない。自我の知性は様々な領域の事柄を数量化し、秩序付けるが、尊さは数量化になじまないのだ。

そして「神」は、実はどの国の言語でも、人間の知性で処理してはいけない「尊さ」の感覚と結合していた。人間の生命は神の領域の事柄だという感覚はそういう意味である。

現代が「神」あるいは「仏」を否定した時、知性で処理できない「尊さ」の感覚まで失われた。それは「役に立たない人間は生きていても仕方ない」という価値観につながるものである。

知性で処理できる価値に関しては、価値の高いものを得るために低いものを捨ててもよいという論理がある。人間は他の生物より価値が高いから、他の生物を犠牲にする権利があるという暗黙の認識も、この論理の延長上だ。さらに解釈を極端に拡張すると、人間の中にも価値の差別があり、高級な人間は低級な人間を支配隷属させる権利を持ち、場合によっては抹殺してもよい、ということになる。

ナチが採用したこの価値観は、19世紀に不当な仕方で拡張解釈された進化論(進化の度合いが高い人間は低い人間より価値が高い)と、当時力を獲得した西欧が唱えがちだった「強者の権利」が結合したものとして理解される。西欧思想の流れの中でも鬼子と見なされるべきである。

しかしこのような価値観は近代西欧に限らない。実は人間存在の基本にあるものを知らず、ないし無視した自我がどこでも陥りやすい罠である。現代は、生の宗教的基盤を無視した自我が利益を求める時代である。このようなエゴイズムは自らの空虚さ故に、およそ尊いものを認めないニヒリズムに転化する。

いのちの尊さの感覚を喪った男の犯行は、ニヒリズムを露わにし始めた現代の徴といえるだろう。