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現代のニヒリズム 宗教を忘却した近代の遺産

2016年7月27日付 中外日報(社説)

宗教といっても様々だが、実際に人間を教化してきた宗教には共通点がある。仏教的な言葉でいえば、人間を苦しめる煩悩的自我の底に、煩悩が失せた清浄なこころの世界を見いだしたことである。それは行き過ぎた人間活動を抑制するけれども、虚無ではなく、かえって人間らしい穏やかな共生を成り立たせるものであった。

しかし、16世紀に幕開けを迎えた「西洋近代の精神」はおよそ正反対のものである。資本主義という形で開花した近代を担ったのは、実は欲望的「自我」だった。近代は人間の本質を自我に見たわけだ。自我は一方では近代科学を技術に応用して経済システムに組み込み、他方では人間の欲望を刺激することで生産力を増強し、経済成長を促進することを求めた。合言葉は「経済成長こそが貧困や病苦や無知を克服して幸福をもたらす」というものだった。

近代は資本主義的経済を可能とする政治や法の体系を創り出して世界を変えていった。それが現代の高度の文明を創出したことは否定できない。他方、一切を商品化し、奴隷売買や植民地化、帝国主義戦争や軍備拡張競争、経済格差や地球的環境破壊をもたらしたこと、かつて列強によって支配されていた諸民族の反抗・反撃を招いていることも事実である。

ニヒリズムというものがある。これは事柄としては古代にも見られるが、自覚的に問題にしたのは19世紀の西欧だ。人間存在にはそれを支える根拠がなく、人間の活動にはそれを意味付ける究極の価値も目的もない、という思想である。また、思想以前の感覚であって、何をやっても無駄だ、人生には意味がないという気分であり、尊いものを破壊する暴行をも生む。

実はそれは安全と意味の保障を求める「自我」の絶望にほかならない。宗教的にいえば、煩悩的自我は初めから絶望の中にある。自我自体の中には自我の安全と活動を保障する根拠も価値もないからだ。西洋でそれを説いたのはセーレン・キルケゴールであった。

21世紀に入って、近代的自我は行き詰まっているように見える。日本でいえば、長く続く不況と内需不振、無関心・無感動・無気力の広まりである。これは自我の虚無が露呈し始めたということかもしれない。

そもそも近代的自我の暴走は、自我が己の虚無を覆い隠そうとして軍事・政治・経済・娯楽に熱中したことに始まる。奈落のような虚無に直面した現代の窮状は、宗教を忘却した近代が自ら招いたものであると知るべきだ。