ニュース画像
参列者が念仏を称える中、伊藤門主は1292霊の法名が記された御回向帳を1枚ずつ手繰った
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

人間性の貧困化を憂う 文化と宗教育てる社会に

2016年5月20日付 中外日報(社説)

かつて高度経済成長期には技術革新の必要が盛んに説かれ、実行された。それに対し、技術革新が進むと人手が不要になるから雇用が減るのではないかという疑問が出されたが、経済学者は、新しい仕事が開発されるから雇用は増え経済も成長するのだと説いた。実際、当時は技術革新と雇用の増加は比例していたのである。

しかし最近、状況が変わってきたようだ。世界的に、技術革新が進むにつれ、雇用が減っているのである。これは無視できないことだ。雇用が減るとどうなるのか。働き場所のない人には国が生活費を支給すればいいかといえば、それでは健全な社会は望めない。職業に自分の生きがいを見いだす人は少なくない。職がなければ自分が何者か、何のために生きているのか、分からなくなる人も出てこよう。19世紀以来潜在的に進んだニヒリズムも、とうとう顕在化するのかもしれない。

かつて仕事では自活できずに強者の庇護のもとに生活していた人々がいた。洋の東西を問わず、画家や彫刻家や音楽家のような人々は、豪商や大寺社・教会や君侯をパトロンにして仕事をしていたのである。

彼らがパトロンのための制作をやめて自立したのは豊かな市民社会が成立してからである。「哲学はパンを焼かない」という諺があったが、豊かになった市民の文化に対する愛好が近世初期の文化隆盛を招いた。

技術革新は失業者を生むが、雇用を確保しつつ働く人の余暇を増やすという面もある。失業者救済のために戦争を始めるのではなく、格差を増大させるだけの経済成長のために働かされるのでもなく、余暇を文化の育成に使う道がある。それは望ましいことではないか。

かつての軍事中心社会でも、いまの経済中心社会でも、人文的な教養が無用視されるが、それは間違っている。人間性の円満な現実化のためには人文的教養が必要だ。教養とは人間の様々な可能性の自覚のことだからである。

実際、文化と宗教の軽視は人間性の貧困化を招いている。カルチャーセンターなどは多いが、静かに考える習慣は失せた。改めて宗教と文化への強力な需要を喚起すべき時ではないのか。

文化を創造し享受する時間的経済的余裕ができるのは望ましい。実際、人々が暇を持て余すような時代は案外早く来るのかもしれないのだが、その時に備え、遊び場と遊び道具で金を召し上げる仕組みを完備させるというだけでは、人文的教養の将来は暗い。