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コンピューターと棋士 数値化されぬこころの開発

2016年4月1日付 中外日報(社説)

かねて予想されていたが、将棋に続き囲碁でもコンピューターが専門棋士に勝利したという。といっても、実はソフトを作成した専門家集団が一人の棋士に勝ったということなのだが、チームの知恵と作業を一台のコンピューターに結集できるところがすごい。

そもそも将棋の場合のように、盤の目の数や使える駒の数に制限があり、駒の動かし方にも明確な規則がある場合は、特定の局面で指し得る手はいかに多くても有限だから、それらを全て数え上げることができる。従って、理論上はコンピューターにおよそあり得る一切の――想像を絶する膨大な――棋譜を作成・記憶させることが可能である。

仮にそれが実現すれば、どんな手を指してもその局面は登録された棋譜のどれかと一致するはずで、コンピューターがその都度最も勝つ確率の高い手を選んで指すようになれば、もはや専門棋士といえども勝利は甚だ困難であろう。囲碁の場合も、はるかに複雑だが、同様である。

俳句は、「いろは」等の特定の文字から17文字を選んで配置する仕方は天文学的数字になるが、とにかく有限である。仮にコンピューターがそれら全てを作成・登録してしまえば、もはや新しい句を作る余地はない。

ただしこの場合には、過去に作られたことのない膨大な句の中から、有意味でかつ優れた句を選び出すという、句作に劣らない創造的な作業が要求される。すると句は誰々の作ではなく、誰々の選ということになるのかもしれないが、この選別は機械に任せることはできない。

句作の場合には感性が不可欠である。例えば、山路きて「なにやらゆかし」すみれ草、と表現されるような、言語化できない現実の深みへの感覚だ。芭蕉の句はそれを暗示的に伝えるのである。

近代の歴史を振り返ると、近代文明は動力を備えた機械を発明し、現代に至ってついにコンピューターを用いた自動制御機械を作り出した。この経過は数次に及ぶ産業革命ともいわれるが、いずれも設計可能、つまりコンピューター言語が使える領域のものである。そのため現代では、「人間性」のような設計不可能、量産不可能な領域は無視される傾向が強い。

コンピューターが専門棋士に勝ったという事実は、ある意味で、今後機械に従属しない、人間性の深みと豊かさを現実化する文化の進展のため、言語化・機械化不可能な領域の開発深化こそが重要だということを、改めて私たち現代人に示したといえるだろう。