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教皇とトランプ氏 宗教的理念と政治の関係

2016年3月18日付 中外日報(社説)

米大統領予備選挙で、勇まし過ぎる発言から人気上昇中のトランプ氏について、フランシスコ教皇が「(メキシコとの国境に)壁を築くなどという人はクリスチャンではない」と語り、それにトランプ氏が不快感を表明したという。

トランプ氏の台頭には共和党主流派も危機感を持っているようだが、同氏の主張自体への評価や教皇の発言の狙いはここでは論じない。ただ見逃しがちな二つのことをあえて指摘しておきたい。

一つは、ある人がクリスチャンであるか否かを公に判定を下せる人や機関があり得るか、ということである。むろんクリスチャンとはいかなる人のことかについては一応の基準がある。それは教会教義を受け入れて洗礼を受け、教会員となってそれにふさわしく生活している人、ということである。

しかし、かつてカトリック教会はプロテスタントを異端視したし、プロテスタントの諸教派にも、教義の解釈や教会の組織については異同がある。我が国のいわゆる無教会主義者は、洗礼を受けて教会員にならなくてもキリスト信徒であり得ると主張する。教義に批判的な信徒もいる。

特にプロテスタントにおいては、外部からはうかがい知ることのできない神と個人との直接の関わりが重視される。以上の観点からすれば、ある人がクリスチャンであるかどうか、公に判定を下す機能を持つ人や機関があり得るとは思えない。

第二の問題は宗教と政治の関係である。宗教が平和を願い、人道的理念を掲げることは当然だが、理念を現実の生活上に表現する上では、状況に関する冷静かつ正確な把握が要求される。

そのためには、誰でも手にすることができるとは限らない情報も必要であろう。従って、判断には当然個人的な違いが出てくるから、宗教的理念から直接に、宗教者全員の一致を要求し得る行動が導き出せるとは限らない。

我が国では戦時中、とかく非国民視されがちであったキリスト教徒の一部が、クリスチャンこそ忠君愛国の民であると唱えたことがあった。クリスチャンなら今や全員一致して愛国的に行動すべきだというのである。これに限らず、「クリスチャンなら」という類の圧力が政治の過ちに棹さしたことがあるのは長い歴史の証明するところだろう。

現代の宗教者は、宗教の権威の上に立って発言するより、影響力ある個人として個人の良識に語り掛けるのがよいのではないか。教皇の発言の趣旨には共感した上で、一言触れておきたい。