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自我中心の文明 問題提起は宗教の役割

2016年3月2日付 中外日報(社説)

夏目漱石の小説が朝日新聞に「100年ぶりで」再連載されている。改めて読み直した人も多いだろうし、この連載で初めて読むという人もいるかもしれない。

漱石の小説『それから』『門』『こころ』には一貫した主題がある。主人公が親しい友人の恋人(あるいは妻)を奪って結婚する話だ。これは小説としては大変巧みな設定である。というのは、そもそも文学は人間の葛藤を描くのだが、葛藤には社会(世間)との関係、勤め先や友人知人との関係、家族(漱石の場合は伝統的な「家」もある)との関係、なによりも自分自身との関係におけるものがあり、上記の設定ではその全てが視野に入ってくるからである。

特に『門』には、内面の葛藤に苦しむ主人公が解決を求めて参禅する話が出てきて、宗教まで話題に入ってくる。『門』では、禅にはまるで素人の主人公がいきなり老師に相見、「父母未生以前の本来の面目」という公案を与えられて――1週間やそこらで答えられないのは当たり前だが――満足のゆく見解を呈することができず、「もっとぎろりとした」ものを持ってこなければ駄目だと言われてむなしく下山する話である。あらゆる人間関係の外に出てしまった孤独な主人公は――これは現代状況を先取している――宗教に入ることもできず、といって捨てることもできないまま、「門」の前に佇むのである。

さて、改めて「宗教」を考えてみると、20世紀キリスト教神学の領域ではパウル・ティリッヒが「キリスト教は実存が提起する問題に神の啓示の立場から答えを与える」と主張していた。しかし今の状況を考えてみると、そもそも仏教を含めて、宗教に入っても確実な「答え」を得るのは非常にむつかしい。

のみならず、伝統的な宗教が――たとえ真理を教えていても――どこまで現代の諸問題に答えられるのかという問題もある。近代世界は宗教が伝えてきた「こころ」の領域を捨てて自我(分別)の文明を築き上げ、自我の牙城に籠もって様々な問題を引き起こしているのに、宗教は「尊い」伝統を守ることに専心して、現代の要請に答えるための自己革新ないし発展を怠っているのではないか。

むろん宗教は経済成長のために奉仕すべきだとか、現代と妥協すべきだとかいうのではない。宗教こそが、かつては軍事力の強化、今では経済成長が至上となっている「自我の文明」の問題性を根本から掘り起こすことが必要なのである。