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成長信仰後の世界 試される宗教の底力

2016年1月27日付 中外日報(社説)

日本は豊かだと思っていた時代があった。今は貧困な子が多い国と報道される。では、まだ豊かでなかった時代に戻ったのか。そうではない。以前より重苦しい時代になっている。若者が宗教を身近に感じるようになっている一因ではないか。

冷戦時代は西側の自由主義陣営と東側の社会主義陣営が対立し、朝鮮戦争やキューバ危機のように超大国が核戦争を仕掛ける可能性が恐れられた。だが、自由主義か社会主義のどちらかが、人類により良き未来をもたらすのではないかという希望もあった。貧困や紛争はあるとしても、将来、経済成長がこれを解決してくれるだろうと楽観し幻想を持っていたのだ。

電気洗濯機や掃除機、冷蔵庫が生活を楽にし、医療の進歩や食生活の改善が健康をもたらし、テレビや自動車が楽しく快適な娯楽をもたらしてくれる。これは幸福の増大であって、真面目に働けば当然、その分配を受けることができると感じていた。経済発展が科学文明の進歩と関連し合って、人類の福祉を増進していきつつある。それが当たり前と信じていた。

しかし、現在、経済成長により国民がさらに幸福になっていくと考える人は減少している。経済がうまくいって貧困が解決され、平和が広がっていくという希望は色あせてきた。富の拡充によって人類がもっと幸福になると信じられた時代は過ぎ去った。

今では、経済成長による幸福の増大という希望は、夢に酔ったある特殊な時代の信仰のように見える。富もいのちも限りがないと錯覚していたのではないか。

限られた富、限られたいのちを意味深く生きようとするとき、与えられたいのちの恵みの尊さがよく見えてくる。このような人心の転換が起こっているのではないか。世界的に宗教復興が目立つゆえんだ。

日本では1990年代にバブルがはじけて目が覚め始め、しっかり目が覚めたのは2011年3月11日以後だろう。津波の被害もそうだが、とりわけ原発災害によってしゃにむに経済発展を追求し、それこそが社会の難問を解決してくれるという楽観を見直さざるを得なくなった。

だが、経済成長に依存しない未来の在り方を探るという問題意識を、広く日本社会が分け持つには程遠いようだ。それはアベノミクスやTPPに期待をかける政府や財界の在り方がよく示している。原発や武器を輸出する等の危うい経済活動に力こぶが入っている。こんな時こそ日本の宗教の底力が試されているともいえる。