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自我中心の文明 全人格的自覚が必要

2016年1月13日付 中外日報(社説)

心臓という臓器は肉体的生命の中心とされてきたが、心臓がさらに「こころ」と密接に関連していることは、すでに「心」臓という名称から見て取ることができる。これはまた「ハート」という英語だけではなく、西欧語一般についても見られることである。

実際、諸臓器の中でも特に心臓が知情意の働きから影響を受けやすいことは誰でも知っている。他方、大脳は意識を司る臓器とされていて、臓器である以上は身体の一部であり身体の一機能であることが明らかなのに、大脳は意識と知性の座で、肉体を支配する特別な器官だとされている。

意識があり、考えることができる人が人間の資格を持つ「人格」である。不可逆的に意識を失った人はもはや人間ではない―という把握には長い歴史がある。特に古代ギリシャの密儀宗教と哲学が結び付いた状況で(プラトンからストア派に至る哲学)、朽ちる肉体に幽閉されている神的な理性が肉体的制約から解放されて逆に肉体を支配することを理想とする立場が確立した。この伝統が西欧的思考に大きな影響を与えている。

近代以降は、理性が自我に置き換えられ、自我が人間の本質であって、肉体は自我を生かす装置のように見なされている。このような把握が脳死者からの臓器移植を認めさせたといえるだろう。

心臓が動いていることは、当人が心・身として生きようとする意志のシンボルだから、胎児においても脳死者においても心臓が動いていれば、この「人」は人間として生きようとしていると感じ、生きようとする身体の意志に共感するのが人の常だが、そのような心性は現代では感傷的として退けられる方向にある。

ここで臓器移植の可否を論ずるつもりはない。臓器移植は、先進国においてはすでに一大産業になっているから、今さらやめるわけにはゆかないとされる。ただ以下の事実を指摘しておきたい。

自我(理性)を人間の本質とする場合、自我が自我を省察することが人間把握の本道となる。考えるとはどういうことかを考えることによって思考の本質つまり人間の本質を明らかにすることが―アリストテレス以来の伝統として―近代哲学の中心であった。だがこの場合、自我が何かは明らかになっても、身体性つまり心・身の一は見逃される。自我が身体の一機能に復帰したときの身体が何かは分からない。全人格的自覚は見失われ、宗教は自我中心の文明と文化の営為から外されてしまった。

そこに現代文明の病理を見ることができるだろう。