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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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震災体験から考える 「個人として尊重」の危機

2016年1月8日付 中外日報(社説)

1995年1月の阪神・淡路大震災の死者6434人の8割は、建物倒壊による「圧死」とされた。変化に富み、苦難を重ねた掛け替えのない人生に突然訪れた終末が、判で押したように「圧死」である。子どもの死も哀惜の念に堪えなかった。医師の「せめて詳しい所見を遺族に語ってあげたかった」という痛恨のつぶやきが耳に残る。

東日本大震災もそうだが、地獄絵図のような混乱の中で、社会のシステムは一人一人の死さえもきちんと看取るゆとりを失う。人命救助でも一番活躍したのは近隣住民だった。戦争体験者は「戦災のようだ」と言ったが、凄絶な現場を顧みて、震災は戦争の疑似体験だったかと思うことさえある。

さて、憲法13条は前段で「すべて国民は、個人として尊重される」と定める。様々な違いを認め合う共生の思想に基づき、信教の自由と並んで宗教界にとっても極めて重要な条文だ。ところが、安倍政権が実現に意欲を燃やす自民党の改憲草案は、この条文から「個」を抜き「全て国民は、人として尊重される」と改変した。

さりげない変更のようだが、深刻な問題が潜む。人が生まれながらにして持つ人間尊厳の原理が「個人として尊重」という言葉に凝縮しているが、それを「人」と変えると個人が集団に埋没し、不可侵の個人的人権に国家が介入する道を開くと指摘されている。そのことは、例えば個人的人権が制約される「公共の福祉」の概念を、草案は為政者が恣意的に判断しやすい「公益及び公の秩序」にすり替えたことでも明らかだ。新日本宗教団体連合会などが批判する主要な理由の一つである。

戦争と平和の境界は、人が「個人として尊重される」状態に置かれているか否かにあるといわれるほどだ。平和学でいう平和は単に戦争や内乱がないことだけを指すのではなく、貧困や差別、抑圧などもない状況をいう。外敵の脅威をあおる政治は、必ず人権の抑圧にかかるという歴史の「常識」を想起しておかねばならない。京都・清水寺で発表された昨年の漢字の3番目に「戦」が選ばれたが、今の世相に戦争のきな臭さを感じ取る人が少なくないのである。

本欄も自民党の改憲草案は多々疑問点があると主張してきた。だが、安倍政権は9条の解釈改憲に続き、今年は全体の改憲に突き進む腹のようだ。戦争ができる国への改造が大きく完成に近づく。

戦争は自衛隊だけがするものではない。震災が示唆する惨禍に再び国民を巻き込むリスクへの無頓着は許されるものではない。