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「人間性」の危機 見失われる心・身の一体性

2015年12月4日付 中外日報(社説)

仏教は分別知ということをいう。無分別と対立するもので、分別自体は悪ではないが、無分別を見失った分別は迷いである。では分別知とはいかなる知か。我々は「これは何?」「何のため?」「どうすればいい?」と問い、答えを得ることに慣れていて、この問い自体についてほとんど全く疑いを持たない。そして答えはいつも、他のものではない「これ」・これ故・こうせよ、ということなのである。つまり「他のものではない」という点で、他のものと区別するのが分別知というわけだ。

それは当然ではないか、その何が悪いのか。問題は、まずこの問いと答えが自分を変えることではなく、自分の利益のために他者の性質を知り、それを利用して他者を操作するのに適している点だ。実際、科学と技術はこの問いに答えることで発達してきた。近代文明の発達は、とかく人間の欲望充足、要するにエゴイズムに奉仕するものだった。こうして現代人は儲けること、勝つこと、楽しむこと(娯楽)に熱中して、それが経済を牽引している。

さらに、ほとんど気付かれていない落とし穴がある。分別知とは自我の知性なのである。現代人は自分自身を自我だと心得て、自我主義(エゴイズム)を発達させてきた。その結果、人間が身体であることを忘れてしまい、「意識を持ち言葉を使い考える」自我が世界だけでなく、身体を認識し支配する構図が出来上がっている。

人間に関する科学、例えば脳科学も自我(大脳)中心で、現代では脳が機能しなくなれば人格死と見なされる。肉体は大脳(自我)を機能させる装置と把握される。だが仏教もキリスト教も、人間を身体(こころとからだの統一体)と理解し、決して知性中心の自我だと考えていなかった。実は「悟り」も「愛」も、身体の全体性が自覚されて可能となるものだ。

自我が身体を支配しようとするとき、自我は自己充足的な情報処理機能となって身体と対立し、独立した自我は身体を肉体に変えてしまい、肉体は身体に反抗する。他方、人間は身体としての全体像を見失い、見失ったことすら気付かない。身体が世界の一部であり、生物界の一部であり、人類の一員であることも忘却されてしまう。共生という構造も、共生への意思も歓びも、現実全体を貫く関係性も、眼中にない。

人間性の危機だといったら大げさだろうか。現代という時代の落とし穴を指摘し、警告し、修復するのが現代における宗教の使命だが、それを果たすことが現代の宗教にできるだろうか。