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「公共」の行方 偏った価値押しつけに警戒を

2015年9月16日付 中外日報(社説)

文部科学省が8月5日に発表した次期学習指導要領の答申素案は、高校で必須科目として「公共」を新たに設ける検討に入るよう提言している。

自民党はかねてジェンダーフリー教育や「自虐史観偏向教育」を否定するとともに、「公共」の科目新設を公約に掲げてきた。改正公職選挙法で選挙権が18歳以上に引き下げられ、「主権者を育成する(公共に関する)教育」の重要性は一層高まっているとはいえる。ただ、一方でその政治的中立性という問題も浮上してくる。

規範に関わる教育は、特定の価値の押しつけになる危険を常にはらむ。それを教える現場の教師の中立性が問われるだけではない。先に紹介した自民党の公約自体に、偏った価値観が反映していると見る人もいるだろう。その立ち位置から「公共」を規定するとどうなるか、という危惧がある。

今月上旬に創価大で開かれた日本宗教学会では、「公共宗教」をテーマとするパネルが開かれた。発表者の一人、島薗進・上智大教授は東日本大震災などの被災者支援ボランティアや全日本仏教会の脱原発依存宣言などを挙げ、「公共空間における宗教の役割増大」を指摘。さらに、「現代日本では国家主義的な宗教性と平和主義的な公共宗教のプレゼンスが増してきている」と分析した。

これはつまり、国家主義的な宗教性もまた「公共性」を高め、公共空間で後者と「せめぎ合っている」という見方だ。

自民党憲法草案が憲法12条の「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」と変更していることについては、新日本宗教団体連合会など宗教界からもすでに批判の声が上がっている。私的領域に対する公的領域を指し示す「公共」は、国家主義的な傾向との親和性は相対的に薄いが、「公益」は国家権力の公に傾きがちである。憲法草案に対する危惧は当然だ。

ただ、「公共」もまた様々な価値観の間で揺れ動いている。「公共」なら中立で、国家の権力と距離があるとは言い切れない。新教科「公共」も市民性教育や主権者教育としての中身を精査し、一方に偏した価値の押しつけがないか検討する必要がある。

ちなみに、国家の世俗性を重視する識者の中には、宗教の公共・公益性を過度に強調する言説自体に違和感を示す意見も見られる。宗教活動が結果として公益性を持つにしても、「公共」の枠組みで宗教を価値づけるべきではないとする指摘もある。その是非はともあれ、この国の「公共」の行方は慎重に見守った方がいいだろう。