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根深い差別の構造 言語の習慣から問い直そう

2015年9月2日付 中外日報(社説)

よく知られているように仏教では悟りの知恵に対立するものとして「分別知」が挙げられている。これは正しい認識なのに、現代では教育にも教養にも生かされていない。残念なことだ。現実の問題としては例えば差別がある。あってはならないものだが、ただ禁じただけでは陰にこもるのみで、なくならない。それは根が深く、我々の言語使用の習慣と結び付いているからである。

差別には性差別、人種差別、宗教差別、国籍差別、身体障害者差別など様々あるが、共通するのは、まず特定の集団に名前を付けて際立たせることである。しかしこれだけでは単なる区別と変わりはない。差別になるゆえんは、それに特定の意味が不当に結び付けられ、その内容が劣等、不道徳、不潔、有害などマイナスのものであること、さらに、当の集団に属する人間は、個々人の資質に関わりなく、おしなべてマイナスの特性を持つと断定され、その集団に属する人々は、自分自身をそのような人間として了解し、さらにそれに応じた扱いを甘んじて受けるよう要求される点にある。

このような差別がいかに不当かつ有害で人権を無視するものであるかは言うまでもない。ただ注意したいのは、我々が「名詞」と呼ぶもの一般が同じ構造を持つことである。すなわち「名詞」を作るとは、特定の個の集合を際立たせて、それに名前を付け、さらにその名前に一定の意味を結び付けることである。ネコであれクマであれ名詞を作るときは同様である。さらに我々は、特定の集合に属する個体はおしなべてその名前と結び付けられた属性を持つと考え、扱う(以上は分別知の特性)。

しかし、そもそもそれが間違っている。数学や物理学のように厳密正確な定義を与え得る学問の場合はともかく、一般には特定の個の集合を作ることも、共通の意味を与えることも、言語使用上必要な便宜的通念の形成にすぎず、それらが実際に何であるかはほとんど関係がない。「一切衆生悉有仏性」とかキリスト教風にいえば「誰もが神の子としての尊厳性をもつ」という深みには全く達しておらず、単なる表面的な区別にすぎないのに、真実を言い当てているものとして通用する。その一例として差別があり、差別された集団が(戦中の日本が敵国に対してしたように)差別する集団を逆におとしめる逆差別があり、(負けた日本が自分たちをおとしめたような)自己差別がある。根底にあるのは無反省な言語使用だ。

このことは教育を通じ教養として周知徹底されるべきである。