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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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戦後70年の今 苦い歴史に学ぶ姿勢を

2015年7月31日付 中外日報(社説)

「坊さんの口から『平和』という言葉なんか聞きたくもない」。大阪の浄土真宗寺院住職は、戦争経験者からこう言われたことで、先々代が宗派の方針に沿って門徒を戦場へ駆り立てた責任を公表し、平和への活動をしている。臨済宗の前管長は、外国人女性の「戦争協力の責任をどう考えるのか」という質問状をきっかけに、宗門としての懺悔に動いた。

小紙は戦後70年を機に、戦争を体験した宗教者や多くの関係者の証言、戦前戦後の宗教界の動きを追った年表と検証記事、戦争問題への主な教団のアンケートなどを企画した。そこから改めて克明に浮かび上がったのは、国家神道の名の下で国民精神を侵略戦争へと総動員する道具として、国家が宗教を利用し、宗教界側もそれに迎合していった苦い歴史だ。

だがその流れの中でも、過酷な弾圧を受けながら「信仰の良心」に従って抵抗した宗教者たちがいた。また戦後は、時期のずれはあっても様々な教団が戦争への協力、軍国化への不作為、戦時の教義の歪曲を反省、検証、懺悔する対応を見せた。その姿勢から、平和・人権問題にいろんな形で取り組んでおり、草の根の運動は社会でも受け入れられている。

宗教団体が、戦争推進に積極的に関わりながら、戦前から戦後の自らの立脚点を明らかにせず、今日を生きることができるだろうか。あるいは教団として戦前の在り方を検証せずして、その後も「平和」を冠した催しに終始するだけで済まされるはずがない。

「平和」を口にしない教団はないが、過去の反省とその後の行いに裏付けられたものでなければ、それは空疎な「空文句」にすぎない。かの戦争も、アジアの「平和」「自衛」の掛け声で遂行された。「戦争のできる国になる」との世論が巻き起こる安保法制が同じような掛け声で推し進められている状況に、敏感であり過ぎるということはない。歴史に学ぶ宗教者からはどのような声が上がるのか。

欧米など世界中で引用される、ドイツの反ナチ活動家だったマルティン・ニーメラー牧師の言葉を基にした有名な詩がある。

ナチスが最初共産主義者を攻撃した時、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

彼らが労組員を攻撃した時、私は声をあげなかった 私は労組員ではなかったから

彼らがユダヤ人を攻撃した時、私は声をあげなかった 私はユダヤ人ではなかったから

そして彼らが私を攻撃した時、私のために声をあげる者は誰一人いなかった