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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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心の闇を照らす光 神仏こそその光源である

2015年7月24日付 中外日報(社説)

元少年Aの手記については、すでに取り上げた。そこでは宗教者、仏教者が事件前に彼の底無しの心の“闇”に介入した形跡が見られないことを指摘した。事件後間もなく、彼の両親が書いた手記も出版されたが、それを読んでも宗教者との遭遇の記録は見られない。ただ、少年Aの矯正過程を追ったあるルポルタージュに、彼が医療少年院に送致された後、教誨師をしていた一人のイエズス会修道士に出会い、その指導を受けた旨が記されている。

もし少年Aや彼の家族の交友圏の中に存在感を持った宗教者、仏教者がいて、「いのちの専門家」としてなんらかの対応をしていたら、あのような凶悪事件も起こらなかったかもしれない。そう思うと、宗教者の不在が悔やまれてならない。

少年Aは一見したところ“普通の”中学生だった。子どもの心の中にもある闇を見通すのは大人以上に難しい。子どもだからという理由で、我々大人はその心が分かったつもりになっていないだろうか。

少年Aは「人の命もアリやゴキブリと同じ」と言い放ったと伝えられる。しかし、彼の母親は「アリやゴキブリの命も人間と同じ」だから、そう教えることで、どんな命も大切にしなくてはならないと諭したつもりだったという。

核家族化のため、間近に身内の死を体験しないから、子どもに死生観が涵養されないといわれる。しかし、少年Aの心の歯車が壊れる大きな引き金になったのは、同居していた祖母の死の体験だったという。彼の場合、まるで死に憑かれたかのように小動物の解剖を始め、次第に惨殺行為へとエスカレートしていった。

日常生活の明るい場所からでは暗い所は見通せない。逆に、自ら暗い所に立てば、全てが透けて見えてくる。子どもにも大人と同じく深い内面性があるが、当の子どもにとっては底知れぬ心の“闇”であり、時にそれは自分では統御不可能ともなる。この闇は、内なる悪として、実は誰もが心の中に大なり小なり秘めているものだと言ってもよい。

内なる悪の徹底的な自覚には、心の世界を照らし出す光が必要である。この光こそ神仏の放つ超越的な光であり、その光源はまさに神仏の存在である。生死の世界を明からめる信仰とは、そのような神仏への信仰に生きることだ。とすれば、やはり宗教者にこそ人々に寄り添いつつ、その心の“闇”を照らし、この世の一切の「いのちの尊さ」へと架橋する役割が求められるのである。