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アコーンと自然法爾 無心に生きるという特権

2015年2月11日付 中外日報(社説)

新約聖書にヘコーンとアコーンという言葉がある。前者は意図的、作為的ということ、後者は作為性がないことである。仏教語でいえば前者は「自力」に、後者は「無心」に当たるといえよう。

原始キリスト教団が成立してから二、三十年たった頃には、すでに伝道活動がなされていて、聖職である伝道の従事者が報酬を得てよいかどうかが問題になっていた。これに対し、使徒パウロは労働に対する報酬は当然だとしながらも、自分自身は報酬は一切受け取らないという。「私がもし(金銭を得るというような)意図をもって(ヘコーン)伝道をするならば、私は当然報酬を貰う。しかし意図なしに(アコーン)それを行っているなら、私は伝道を(キリストから)委託されて、やむにやまれず行っているのだ。私には無償で福音を提供すること自体が報酬である」と。

「自分の作為なしに、委ねられて」とは、パウロが他の箇所でいう通り、「キリストがパウロを通して伝道を遂行している」ということである。これは浄土教でいう「自然法爾」(法がそうさせるから、おのずとそうなる)を思わせるところがある。

宗教改革者のルターはこの箇所を、ヘコーンを「自力で」、アコーンを「自力によらず」と正確に訳している。ところが現代の諸訳では訳語がまちまちで、ヘコーンを「自由に」、アコーンを「強制されて」と解するものもある。「もしも私が自発的にそのことをするなら、私は報酬を得るだろうが、しかしもしも強いられて務めを委託されたのなら、私の報酬とは……福音を無償で提供することである」と、まるで無理強いだ。

しかし「自発的に(つまり好きで)するなら報酬は要らないが、強制されてするなら報酬を貰う」のが当然だから、上の訳は事柄としてもおかしい。なぜこういう訳がなされるかといえば、現代では一切が「自力」の業になってしまったからであろう。全ては、何か「ためにする」ところのある行為で、それが当然であり、そうでない行為はそもそも考えられなくなっているのだろう。

近代的個人の確立とは要するに自我の確立であり、近代的自我は特定の目的を設定し、プログラムを組み、それを遂行する。政治経済の営為はもちろん、本来は非営利的な分野でもそうなりがちである。マスコミが好んで取り上げる話題も儲けること、勝つこと、楽しむことが多い。

今の世でアコーンに生きられるとしたら老人だけ、それが老人の特権なのかもしれない。