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宗教の存在感 さりげない触れ合いから

2014年12月12日付 中外日報(社説)

宗教に生きる者は、自らの信仰や教えのまなざしを通して世界や人間を見る。これは信仰者、宗教者として当然の姿勢であろう。一方、世間の人々にとっては、宗教は人間世界の特殊な一部分にすぎない。そのため、宗教的なものの見方に対しても、世間と関係のない特別なもののように思いなしてしまう。これでは、どんなに優れた教えであっても、なかなか人々に伝わりにくいことになる。

同じ人間世界でも、信仰の目から見たありようと、一般の目から見たありようとの間には大きな懸隔がある。これはどう架橋したらいいのだろうか。

この問題は、宗教そのものの存在感に関わってくる。普段の生活で信仰者、また宗教者の姿を見掛けなければ、宗教は社会の背景に退いてしまうだろう。寺院や教会などの宗教施設が近所にあっても、そこに人の姿が見えない、あるいは人がいるものの世間との接触が何もなければ、宗教は風景の中の一点景にすぎない。けれども、日頃からなんらかの接触があれば、何かにつけ宗教を意識し、また宗教的なものの見方から学ぶことも多いだろう。

いったん知ることになれば、宗教の存在感はとても大きい。しかし、そのためにはさりげない触れ合いというものも重要だと思う。

駅前などで、毎日のようにごみ拾いをしている人がいる。もう長年、その人はごみ袋とごみ挟みを持って丹念にごみを拾っている。奇特な人もいるものだと、道行く人たちは思う。ある日、その人が近くの宗教施設から出てくる姿を見掛ける。そうした時、思わず「あの奇特な人」に信仰者の姿が重なり、宗教の存在感がぐっと前面にせり出してくるのである。

「咲くまでは草と呼ばれる野菊かな」という詠み人知らずの句がある。人知れず積まれる陰徳の行為も、いつか人々に知られることがあろう。しかし、きれいな「野菊」と見るのは人々の目であり評価にすぎない。自らはそうした人の目を気にせず、黙々となすべきことを行っている姿こそ尊いものだ。思うに、妙好人とはこういう存在を言うのであろう。

逆に言えば、宗教者として功成り名を遂げたとしても、そうした評価にとらわれることなく、神仏の教えだけを頼りに、名も無い草のごとくさりげなく人々の間に生きる姿勢に立ち返ることも、また必要なのではないだろうか。

宗教離れ、宗教忌避の風潮は恐るるに足らず。大切なのは、自分がどこまで人々のために神仏に祈り、人知れず力を尽くしているかである。