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情報の海のなかで 大切なのは量より質

2014年10月22日付 中外日報(社説)

現代人は情報や主張の海に漬かっているが、それらの正しさを保証するものは何か。古代ギリシャ人は、主張は論証されなければならず、主張を述べる言葉の意味は明晰でなければならないとした。これは当時としては大変進んだ原則である。しかしこれでは足りなかった。近代は、さらに主張は経験に即して検証されなければならないとした。近代の学を進歩させたのはこの原則である。主張の正しさは、そこで問題になる事柄自身に実際に当たって検証されなければならないということだ。

この手続きを踏まないとどうなるか。経験の検証抜きで推論だけに頼った場合は正しい認識は不可能だと説いたのはカントで、神の存在や霊魂の不死などは論証のみでは結論が出ないことを示した。

では歴史研究のように直接に経験できないときはどうするか。過去の史実を確定するためには直接間接の情報に頼らなければならない。このような場合、まず信頼できる情報を選び出すことが重要である(史料批判)。大切なのは情報の量ではなく質だからだ。さらにさまざまな歴史記述や報告も比較検討される。記述自体に曖昧不審なところや矛盾がある場合には史料価値がないことになるが、反対に問題の事柄を解明し、当時の状況の中に正確に位置付け、前後関係をよく説明する記述は優れていることになる。しかし歴史認識の確かさには限界があって蓋然性を超えることはできない。

現代のように膨大な情報が飛び交っているときにその正しさを自分で検証するのは、事柄をよく知っている場合を除いて、大変にむつかしい。信頼できそうな情報、一般に通用している主張が真とされやすいばかりではない。そもそも情報というものは発信者に都合のいいように作られるものだし、また受信者の側も自分に都合のいい情報を真と認めたがるものである。本当に公正で正確な情報などめったにあるものではない。ではどうしたらよいのか。各人が広い分野にわたって正確で基礎的な認識を形作っておくべきであろう。それを絶対化してはいけないが、一応の基準にはなる。

ただ、こういう例もある。ある宗教関係の学会では発表の大部分は核心的で直接の明証性をも伴う宗教的「経験」には触れず、過去の文書や思想、人物や出来事に関わる安全な実証的研究なのである。むろんそれは必要だがそれだけでは足りない。客観的事実だけが真実ではない上に、過去の事実の研究は蓋然的で、異なった見解を無限に生み出すものであることも忘れてはならない。