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因果論的計算の限界 宗教と創造的自由の親和性

2014年10月10日付 中外日報(社説)

近代の学問、特に科学は因果律を使って大成功を収めた。因果律とは、特定条件のもとに特定の現象が生起するということで、条件を変えれば結果も変わり、条件が分かれば結果も予測可能だということである。因果律は作用の場が等質で作用関係が単純な場合には絶大な威力を発揮する。天体の運動やロケットの軌道の計算がまさにそれだ。

ところで現在では、複雑系という現象があり、それがむしろ普通であることが知られている。相対的に自律性を持つ複数の個が相互作用しながら変化していく場合がそれで、初期条件のわずかな差が結果に大きな違いをもたらすから、正確な予想は不可能となる。天気予報が典型的で、だから台風の進路は予想円で示される。

人間が関わってくる場合には因果ではなくて変換の方が重要になる。ここで変換というのは、例えば訳者(変換者)が英語を日本語に「直す」作業である。この場合、誤訳ということがある。そうでなくても訳文は訳者によって同一ではない。一般にシステムの作用関係は変換であって因果ではない。それはシステムが他者の作用を取り込む場合にそれを自分に合うように変えるからだ。

だから変換の結果が「原因」によって一意的に決定されることはない。身体が外部から食物を取り入れて自分の一部に変換する場合がそうだ。これが決定論的な因果関係ではないというのは、同一の身体でも健康状態によって同じ食物を消化できたりできなかったりするところに見られる。同じ薬を同量使っても効き方は人によって同じではない。同じ言葉を語っても受け取り方は人によって違う。

感覚の例が重要である。身体は外からの物理的・化学的な刺激を感覚に変換するのであって、両者の関係は因果ではない。外から観察すれば刺激は電気信号に変換されて脳で処理されるのだが―そのメカニズムはまだ明らかになっていない―この過程は全て物質の物理的・化学的反応だから、それが非物質的な感覚を「生む」さまを外部から「客観的・科学的に」観察できるわけはない。そもそも一方は客観的な事象で、他方は意識の事柄であって、ここで物質的刺激は感覚へと「翻訳」される。これは因果ではなく変換である。

宗教は人間が人間を因果論的に操作することを嫌う。それは人間同士の作用関係が因果律ではなく創造的自由を介した変換であることを直覚的に心得ているからである。そのことは、緻密な計算で操作される管理社会の中で、重要な意味を持ってくると思われる。