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過ぎゆく夏に思う 異国に置き忘れられた骨

2014年8月29日付 中外日報(社説)

昭和が始まった1926年から75年まで、歌集や同人誌に載った短歌を集めた『昭和万葉集』(講談社、全21冊)の第7巻に「無言の帰還」と題した一群れの作品がある。45~47年に発表された。

《子の遺骨信ずる外はなかりしが正目に終の死顔を知らず》《ジャングルのなかに吉之助も餓ゑ死にしをらむと涙にいふ妻のこゑ》

《白木の小箱いだきしむれど音もなく骨なき柩のこの軽さはも》《箱一つ還りきたりて亡き人を思へとならしその軽き箱》

先の大戦で肉親を失った遺族の作品は、悲しみを耐え忍ぶ力なき人々の姿をほうふつさせ、切なくまた痛ましい。海外戦没者は戦争末期には遺体を火葬されることもなく、多くは空の白木の遺骨箱で祖国に還った。海外に百万余の戦没者の遺骨を残したまま、今また強引に憲法解釈を変え海外派兵をもくろむ日本の国柄を思う時、歌集の作品はより深く心に響く。還らぬ遺骨は戦争のむなしさ、戦死のはかなさを象徴して余りある。

アジア・太平洋戦争での日本人海外戦没者は240万人に上るが、これまでに収容された遺骨は127万柱にとどまる(厚生労働省)。残る113万柱は現地に置き去りにされたままである。戦没者の大半は餓死だったとされる。

独立回復後の50年代、政府の遺骨収集団が南方に派遣された。64年の海外渡航自由化で遺族らの要望が高まり、第2次以降の収集団も派遣された。だが、50年代の収集が米国管理地域で「印程度の発掘」に制限され、全体でわずか1万1千柱に終わったことが後々に尾を引いた(浜井和史著『海外戦没者の戦後史』吉川弘文館)。現地の状況変化や記憶の風化などで収集は年々困難になっていった。近年は遺族・戦友会や宗教界をはじめ民間の活動が遺骨収集の主力になっている。

無数の遺骨が埋もれるニューギニア・ビアク島の洞穴で遺族の号泣と死の実相に圧倒され、ついに「お経を誦めなかった」と神宮寺住職の高橋卓志さんが岩波新書『寺よ、変われ』に記している。三十余年前だが、この時に高橋さんは仏教者として目覚めたという。

安倍首相も今年7月にパプアニューギニアを訪れ日本人戦没者の碑に献花・黙祷し、終戦記念日の全国戦没者追悼式の式辞でもそれに触れていたが、野ざらしの遺骨と遺族の無念が通じているだろうか。

英霊崇拝に関連し、戦争賛美の風潮が気にかかる夏である。忘れられたあまたの遺骨が今も異国に眠ることを心に刻んでおきたい。