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自我と煩悩のわな 心の深みを忘却した現代

2014年8月22日付 中外日報(社説)

ロボットは必ずしも人の形をしているものではないが、人間型のロボット(アンドロイド)が好まれているようだ。店に入ると美人のアンドロイドがにこやかにあいさつして案内してくれる、という具合である。ところで人間とアンドロイドには大した違いはないと考えている人がいるらしい。ロボットが生物だと思っている人はいないから、それは顔の表情や動作、仕事の達成度などがという意味だ。人間とアンドロイドに違いがないとは不届きな、と不快に感じる人もいるだろう。

もちろん、ロボットを動かすためにプログラムを作りデータを入力するのは人間で、ロボットはそれに従う以外のことはできないからだ。プログラムされていなければアンドロイドは悪いこともしない、嘘もつかないし、仕事のミスも少ない。その点だけなら人間よりましだといえるくらいである。

一方、人間は生まれ出て、この世で生きるために、自分の周囲の世界には何があり、どの状況ではどのように振る舞わなくてはならないか、全てを学習しなくてはならない。ただし、人間も教えられた通りに考え振る舞うのが普通である。教え込まれ指示された通りに振る舞う点では、ロボットと人との間に基本的な違いはない。

学んで知識を獲得し命じられた通りに行うのは人間の「自我」である。そして自我は自己中心的になりやすい。他方、宗教は自我とは違う深みの次元を伝えてきた。仏教の中心は「悟り」で、これはさまざまに説かれているが、要は人間の思考と行動は、ただ外から与えられるものを学び、それに従えばよいというものではない。それらは内側から、自覚を伴っておのずと成り立ってくるもので、その内容が知恵であり慈悲である、ということである。

換言すれば、思考や行動は「自我」を超えた心の深みに根差しており、それが明らかになるとき煩悩もうせるということだ。キリスト教でもイエスは同様の見地から当時の律法主義者を批判した。倫理的行為は人の身と心に及ぶ「神のはたらき」に根差すもので、外から教えられた形を自我が再現することではないというのである。

しかし宗教は教条や倫理――自我の次元の事柄――になりやすい。まして日常生活では「自我」が主役となり「煩悩」をはびこらせる。万事を自我の事柄――客観的に指示・伝達可能で検証・計量も可能な事柄――に還元し、心とその深みを忘却した現代では、ロボットは人間(自我)にできることを、全て人間より上手に行うことになるのではあるまいか。