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梁の武帝と太子 宦官の策略が生んだ亀裂

2014年7月9日付 中外日報(社説)

東方学会主催の国際東方学者会議関西部会が5月31日、京都の国際交流会館で開かれ、南京大教授の張学鋒氏が最新の考古学的発掘の成果に基づいて、「隋煬帝墓と昭明太子墓の発見」を演題とする講演を行われた。

隋の煬帝墓のことはしばらくおき、昭明太子は6世紀梁の武帝の太子であり、美文のアンソロジー『文選』の編者として知られる人物。これまでは梁を継いだ陳王朝の第2代皇帝文帝の陵墓とされていたものが、実は昭明太子墓であることが確認されたのである。

新たに昭明太子墓と確認されたのは、東側の1号墓と西側の2号墓とから成り、両墓の墓室の距離は約10メートル、1号墓の盛り土が2号墓の上に覆いかぶさっていて、1号墓は2号墓の建造におくれると判断されるという。そして2号墓は昭明太子の生母の丁貴嬪の墓、1号墓が昭明太子の墓で、南京市の東北郊外に存在する。

ところで『南史』の昭明太子伝に丁貴嬪墓に関する話がある。

526(普通7)年、母親の丁貴嬪が亡くなると、昭明太子はしかるべき場所に墓地を定めたものの、そのころ宦官の兪三副に土地売却を依頼した者があり、もし300万銭で売ってくれるなら、そのうちの100万銭を謝礼として進ぜようと申し出た。兪はそこで武帝に進言する。「皇帝陛下に吉事をもたらす点から申しまして、太子さまが求められた土地よりこちらの土地の方が優れております」

武帝は言われるままにその土地を買い取り、丁貴嬪の墓地として太子に与えた。ところが一人の道士が現れて言うのには、「この土地の地相は長子に利あらず」。長子とは太子のことに他ならない。そこで太子は厭伏、すなわち厄除けの品々を墓のそばに埋めたのであった。

このことを耳にした東宮に奉仕する宦官の鮑邈之、ライバルの魏雅を陥れるべく、「魏雅、太子の為に厭祷す」とあらぬ密告を武帝に行う。武帝が丁貴嬪の墓を掘らせてみると、果たして奇怪な品物が次々に見つかった。

「太子が朕を呪い殺そうと企んでいるのではあるまいか」。武帝は徹底的究明を思い立ったが、固諫する者があり、事件の発端となった道士を処刑するだけにとどめた。だがこのことで、太子は深く懊悩せざるを得なかったに違いない。

昭明太子が天子の位につくことなく、31歳の若さをもって世を去ったのは、それから5年後の531(中大通3)年。そして生母丁貴嬪の墓のすぐそばに葬られることとなったのである。