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人とロボットの間 「尊さ」への感性と宗教

2014年6月25日付 中外日報(社説)

ロボットが進化している。かつて人間は道具を用いる動物だといわれた。現実にはチンパンジーが簡単な道具を使うことが知られている。しかし道具を作る人間の能力は抜群で、道具は手足の代行を務めたばかりではなく、その能力を格段に高めた。近代になって動力が発明されると、それまで筋力に頼っていた作業を機械が代行するようになり、作業能力が飛躍的に高まった。ただ、機械を操縦するのは人間であった。

20世紀にコンピューターが発明されると、機械は人間の頭脳労働を代行し始めた。プログラムを作りデータを入力するのは人間だが、将棋のように理詰めで規則が明確なゲームの場合、コンピューターは専門棋士に勝つほどになった。膨大なデータを内蔵し、瞬時に数万通りの可能な手を比較して最良の指し手を発見できるからである。

では何もかも機械に代行させるようになったかといえば無論そうではない。私の代わりに機械に生きてもらうわけにはゆかない。私に代わって機械に食べたり寝たりしてもらうことはできない。これは原理上不可能である。ただし人工心臓のように、傷んだ内臓を除去して機械に換えることはできるかもしれない。心臓や肺や腸を換え、手足まで機械化することができるようになるのだろうか。

いや、機械ではなく、万能細胞を使って内臓を作り、傷んだ内臓と交換できるようになるのかもしれない。しかし頭脳を換えたらどうなるだろうか。私の「からだ」はあっても「私」という人格はどこにゆくのだろうか。もし私の脳のメモリーを完全に人工脳に移して、それをからだとつなぐことができたら「私」は存続するのだろうか。しかしそれは、仮にできたとしても、実際上途方もなく複雑な作業で、実験室で生物をつくる方がまだやさしいだろう。

どこまでも私のものであって他人のものではないものに感覚がある。感覚は今・ここでの私の感覚であって他人の感覚をわがものとする通路はない。さて感覚なしに芸術はない。またロボットが「かわいそうに思って」人を助けることはない。だから感覚は道徳とも無縁ではない。

宗教の根本には「尊さ」の感覚がある。生命だけではなく自然そのものに尊いもののはたらきを感じるのは「原始」宗教のことだと軽視するわけにはゆかない。そもそも尊いものへの感性をなおざりにする現代、もうけること、勝つこと、楽しむことに熱中する現代こそ、人間性の未開状態に陥ったというべきだろう。