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見慣れた物の中に 日常を根源的に体験する

2014年4月30日付 中外日報(社説)

退屈で死にそうだとはよく聞く言葉だが、実際に退屈して死んだ人はいないようである。今のご時世はびっくりするような出来事が毎日報道されて、退屈する暇もない。とはいえ、日常生活の繰り返しに飽き飽きすることも少なくない。猫と違って人間は活動するようにできているらしい。

「小人閑居して不善をなす」という言葉があり、人間は退屈すると戦争を起こすものだ、と物騒なことをいう人もいる。そもそも人間生活が過度に忙しいのは退屈という悪霊を追い払うためだという説もある。

「住み慣れし街にも何ぞ 新しきものやあらむと 幾街角をへ巡れど こころ慰むものもなし」というヘルダーリンの詩句は退屈というよりも憂愁に満ちているが、日々新しいものに接することはなくても、見慣れたものの中に新しいものを見つけることは可能だろう。

何度聴いてもバッハの音楽にはその都度新しいものが見つかるという人がいる。そもそも同じものを見ていても感覚というものは常に新しいのである。痛みを例にとると分かりやすいのだが、感覚が持続するとは、石があり続けるのとは違って、同じ感覚であっても瞬間ごとに新しく生起することだからである。それはロウソクの炎が同じ形と色を保っていても常に新しく生成しているのと似ている。一般に生命の持続とは、同じ構造が瞬間ごとに新しく生起するということである。ただ、同じといっても実は全く同じではないから老化ということも起こるのではあるが。

慣れたものはちらと見るだけで、あらためて味わおうとしないものだ。慣れるとは、事物に接するごとにまたあれかと、認知の方が感覚に優先すること、パターン化された認知が感覚を覆ってしまうことである。忙しいのだから当然だといえばそれまでだが、これは経験の都度新しく感覚し直すことを怠るということである。

碧巌録に、金牛という和尚が昼飯が炊けるといつも自ら飯桶を持って僧堂の前で踊りを踊り「皆さん、御飯ができたぞ。食べにおいで」といって呵々大笑したという話がある。昼飯という日常的なことでも実は、飯を炊く行為も飯を食べる行為も常にその都度新しい出来事だ、味という感覚もその都度新しく根源的に生起するということだろう。

日常的な出来事をその都度根源的に感覚し直すということである。現代生活の忙しさにかまけてそれを怠ると現実の深みが見逃されてしまう。