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王朝末の皇帝たち 天子の家に生まれた悲運

2014年4月25日付 中外日報(社説)

王朝革命が繰り返された中国。戦国の諸国を滅ぼし、中国の全土を統一して秦王朝の初代皇帝となった嬴政は自ら始皇帝と称した。始皇帝なる称号には、「二世、三世より万世に至るまで之を無窮に伝えん」との願望が託されたのだが、しかしその願望はむなしい幻想に終わり、秦王朝はたったの二世皇帝をもってあっけなく終焉する。

始皇帝の崩御後、息子の胡亥が権力を掌握した宦官の趙高によって二世皇帝に立てられたものの、数年して趙高の婿の閻楽が胡亥が住まう望夷宮を訪れる。胡亥は「一郡の郡王とならせてはもらえないか」「一万戸の大名とならせてはもらえないか」「せめて妻子とともに一介の平民の身分とならせてはもらえないか」と次々に懇願したものの、全て「ならぬ」と退けられ、胡亥は自ら命を絶った。それから間もなく、劉邦の率いる軍勢が都の咸陽を制圧し、秦王朝は史上から姿を消したのであった。

この胡亥のように王朝末代の皇帝を見舞った悲劇の事例は事欠かない。例えば東晋第11代の恭帝司馬徳文は宋王朝の創業者となる武帝劉裕によって王朝を奪われると、秣陵宮において軟禁状態に置かれた。彼は絶えず妃の褚氏と一室に起居し、毒を盛られることを恐れて褚氏手作りの料理の他は一切口にしないほど細心の注意を払っていた。ところがたまたま褚氏が部屋を空けた隙に数人のテロリストが闖入し、毒を仰ぐよう逼った。司馬徳文が「仏の教えでは、自殺した者は二度と人間に生まれ変われない」と拒絶すると、布団蒸しにされて命果てたのであった。司馬徳文は仏教信者であったのである。

東晋王朝を奪った宋王朝の最後の皇帝、順帝劉準の末路も哀れである。宋王朝に代わる南斉王朝の創業者●道成にいよいよ位を譲る詔を下すことが決定したその日のこと、●道成の腹心の将軍の王敬則が宮城にやって来る。劉準は仏像を祀る天蓋の下に身を隠したが、引きずり出され、車に乗るよう命じられる。「殺すつもりなのか」「別宮にお出まし願うだけだ。ご尊家が司馬氏の王朝を奪われた時のやり方に倣うのだ」。二人の間にこのようなやりとりが交わされ、やはり仏教信者として輪廻の説を信じる劉準は最後にこう言った。「来世において繰り返し生まれ変わろうとも、天子の一家にだけは二度と生を受けたくない」。身柄を丹陽宮に遷された13歳の劉準が命を絶ったのは、それからわずか一月後のことであった。

●=くさかんむり+粛