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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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社会的現実の価値と利害とは無縁な本質

2014年3月27日付 中外日報(社説)

悲劇の作曲家S氏の作品だとされていた交響曲が実はN氏が代作したものと判明してマスコミの話題になった。筆者もその交響曲を聴いたことがあるが、重厚な和音が印象的でなかなかいい作品だと思われた。代作だと分かったこの曲は忘れられる運命にあるのだろうか、それとも自身の良さによって聞き継がれていくのだろうか。

その交響曲はS氏の作品として通用していたのである。ところで「通用する」ということは、それが「社会的現実」ということだ。カネとはカネと思われているもののことだという「定義」があるが、この定義は正確ではない。貨幣がカネとして通用するのは、それが合意と裁可(合意に違反すれば制裁を受けること)によって担保されていて、さらにその担保が法にまで客観化されているからである。

だからいわゆる地域通貨が全国で通用することはない。これは地位や役職についても同様で、例えば王が王として通用するのはその個人的実力によるのではなく、社会的合意に担保されているからである。だから民衆が王として認めなくなれば、フランス革命当時の王ルイ16世のように廃位されてしまう。

ところで芸術作品には代作もあるが、贋作も多いのである。専門家が美術工芸品に値を付けるテレビ番組があって、面白いから多くの人が見ているようだ。一般に贋作にはすぐ贋作と見抜けるものもあるが、専門家が慎重に検討しなければ真贋が判明しないことも多いのである。そして専門家が真作であると保証すればそれは真作として社会的に「通用する」ことになり、高値が付き投機の対象にもなる。

かつて安く売買されていた一枚の肖像画が若きゴッホの作品と判明してオークションで大変な高値が付いたことがあった。有名作家の真作には高値が付く。これは作品の「価値」は作品固有の内容にあるのではなく社会的現実だということだ。「有名」性は社会的現実性だからである。哲学者カントは美の本質はそれが利害得失とは無縁なところにあるという名言を吐いた。言い換えれば美は本来社会的現実ではなく、利害とは無関係な現実を映しているということ、つまりは損得を離れたこころに訴えるということだろう。

ところで宗教の正当性はその社会的現実性だけではなく、しばしば長い伝統に担保されているものである。しかし現代の宗教はどこまで利害得失を離れたこころに訴えているだろうか。