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民衆の研究で描いた念仏行者播隆の実像

2014年2月27日付 中外日報(社説)

「本の題号を『播隆入門』としたのは、私たちの播隆研究が入門したばかりとの考えからです。研究すればするほど、播隆さんは偉大な念仏行者だったとの思いを強くします」と語るのは、岐阜県坂祝町在住の地方史研究家・黒野こうき氏である。槍ケ岳開山で知られる播隆の実像に迫る著書をこのほど、岐阜市の「まつお出版」から刊行した。

江戸後期の1786(天明6)年に現在の富山市の農家に生まれた播隆は、55歳で没するまで一介の浄土律の聖として修行しながら岐阜県の笠ケ岳登山道を再興し、さらに未踏峰とされていた長野県境の槍ケ岳へ、上高地から登るルートを確立した。だが高位の僧ではなく、山岳修行と遊行の生涯を貫いたため、仏教者人名録にはほとんど記載されていない。

1968年、作家の故新田次郎氏が著した『槍ヶ岳開山』で、その存在が広く知られるようになった。しかし小説としての構成が巧みであるために、その記述が全て史実であると誤解される恐れがないわけではない。

例えば播隆は、一揆騒ぎに巻き込まれて富山藩の武士と戦い、誤って妻を殺してしまう。それが出家の動機とされている。一寺の住職になると、亡き妻に似た尼僧が弟子入りを願うというロマンもある。清僧を貫いた播隆には、それらの事実はない。

一日一回、水で練った蕎麦粉を食べるだけの木食行を貫いたが、槍ケ岳の山中でガイド役に「山には山のおきてがある」と言われ、俗人と同じ食事をしたことになっている。これまた山岳行者にはあり得ないことだ。

播隆は東海地方の村々で播隆講または念仏講を組織し、念仏の有り難さを説いたが、その地道な行動が小説では十分に描かれているとは言い難い、とも。

黒野氏は99年以来「ネットワーク播隆」を組織、代表として100余人の仲間と共に播隆の実像を求め続けた。「開山暁播隆大和上行状略記」をはじめ資料は多いが、伝承が先行して史実性の薄いものもある。そんな時「ネットワーク播隆」仲間の学識に助けられることが多い。

「江戸前期、美濃(岐阜)に生まれた円空の事跡を調べているうち、円空仏が残されている地方には必ず播隆の建てた名号碑があるのに気付きました。2人の足跡が重なるのです。そこから、播隆研究にのめり込みました」。民衆と共に生きた念仏聖の姿が、民衆の研究で明らかにされようとしている。大成を期待したい。