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人物本位入試の尺度は凡夫に観察が可能か?

2014年2月20日付 中外日報(社説)

入試シーズンも佳境を迎えて、全国の受験生らはライバルよりも1点でも多く点数を取って競争を勝ち抜こうと必死の形相で試験用紙に向き合っていることだろう。

ところで、今の小学6年生や中学1年生が大学受験に臨むころには、入試制度が人物を中心に評価する方向に改められるかもしれない。政府の教育再生実行会議が昨年、大学入試を「点数主義から人物評価の選抜へ転換」すべきだとの提言をまとめ、その実施時期については「5、6年後をめどとする」とした。

試験の点数だけでその人の能力の全てが推し量れるわけではない。発明王・エジソンのように学校の成績は悪くても、世に出て素晴らしい業績を挙げた人は数多くいる。「脱・点数主義」を謳うこの提言を「我が意を得たり」と歓迎した人たちも少なくない。

ただ「人物本位で評価する」というのは、いかにも聞こえは良いが、その評価の基準はどうなるのだろう。点数主義の試験には「重箱の隅をつつくような些細な知識の有無を試すだけ」などの批判もあるが、受験生はみんな同じ試験問題に向き合うことで平等性は担保されている。

「点数が悪くて不合格になるのは仕方がないが、面接などで合否を決められるのは不安」。再生会議の提言に対し、"将来の受験生"の保護者からはこのような声も聞かれるが、入社試験などの面接で撥ねられて「納得がいかない」と悔しい思いをした人もいるだろう。

人が人を評価する際に常に問題になるのは、評価する側の私情や主観をまったく排除することは極めて困難で、人によって評価の基準がまちまちになる可能性が高いことである。人が人を観察するのは難しい。「パフォーマンスに優れた受験生が有利になるのでは」と危惧する大学教員もいる。

人物本位の入試の目的は、グローバル化(アメリカ基準)時代にあって、わが国の将来を担う独創性や主体性豊かな人材を育成することだが、パフォーマンスや一芸に秀でただけの学生にこの国の未来を託して大丈夫か。

仏教語の観察は「かんざつ」と読む。智慧によって対象を正しく見極めることである。釈尊は自らを含めた世界を観察、思惟してそのあるべき姿を説いた。私情や主観を捨てきれない凡夫の身で釈尊のように人を観察することは不可能である。

「人物本位」という耳当たりの良い言葉の背後に危うさ、怪しさを見るのは穿ち過ぎだろうか。