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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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もう見て見ぬふりを続けることはできぬ

2014年2月13日付 中外日報(社説)

「『援助に感謝しますが、私たちの本当の願いはあなた方の国の政治を変えてほしいことなのです。投票権のない私たちにそれはできないことですから』。そう言われて、とてもショックでした」と、東南アジアの開発途上国で支援活動するNGOの若いスタッフに打ち明けられたことがある。平成に入って間もなく。当時、国際協力の分野で日本のODA(政府開発援助)は世界一を争ったが、途上国の貧困層に届かないことが多いと批判もされた時代である。

『』内の談話は、日本のODA政策は開発独裁と呼ばれた被援助国の一部特権層を潤し政権の腐敗と延命に手を貸していると、貧しい民衆がその改善を訴えたもの。だが、NGOのスタッフがショックだったのは、自負する自分たちの国際貢献活動の足元を問いただされたように思ったからだった。自国の政治に無関心でいると他国の弱い立場の人々を傷つけていることにも気付かず無責任に陥る。途上国の現場でそのことを思い知らされたというわけである。

古い記憶を思い出したのは、沖縄県読谷村の浄土真宗本願寺派真常寺・北村昌也住職の講演記事(本紙1月28日付)による。北村住職は沖縄県民の願いを顧みない普天間基地移設問題に関連し「本土から基地反対運動に参加する人もいるが、沖縄だけでいくら声を上げても限界がある。沖縄のことを知った人は自分の地元で声を上げてほしい」と語ったという。先の話と通じ合う構図である。ただ、NGOの若者は不公正なことに心を動かす感受性があったが、沖縄に対する本土側のエゴと無責任さはむき出しのままである。

普天間移設問題は先日の名護市長選でも詳しく報じられた。選挙戦終盤で自民党の石破茂幹事長が移設容認の候補を当選させようと突然500億円の名護振興基金を振りかざした際、聖書の言葉「人はパンだけで生きるものにあらず」が浮かんだ。言葉の真意は後の「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」にあるそうだが、神の言葉をここでは人の尊厳や人権と言い換えておきたい。それを愚弄したに等しい発言が市民の怒りを買った。そんな政治を私たちは見て見ぬふりしていないか。

戦後、日本を占領した米国は沖縄を要塞化すれば日本は非武装でも防衛可能と判断していたという(古関彰一著『「平和国家」日本の再検討』)。平和憲法もそこから生まれたが、沖縄は犠牲に供され続けてきた。その歴史を省みる時、本土住民に良心のうずきがなければおかしかろう。