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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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「初めまして」だった旧友との再会の言葉

2014年1月30日付 中外日報(社説)

「初めまして。いやいや、お久しぶりと言うべきですね」。昨年夏、広島市在住の新井俊一郎さんが高知市在住の元同級生、植野克彦さん(旧姓中澤)に電話連絡をした時の第一声だ。12歳、中学1年生の時、広島の原爆で別れ別れになり、68年ぶりに消息を知った同士の対話である。

広島市の中学校や女学校の1、2年生は1945(昭和20)年8月6日、原爆の真下で家屋疎開作業に従事していたため、大多数が犠牲になった。だが新井さんらが1年生として在学した広島高等師範学校付属中(現・広島大付属中・高)は、食料増産のための農村作業に動員されていて、被爆を免れた。

その中で広島市内に残留していた一部生徒約20人は、中区東千田町の学校農園での作業に向かう路上で被爆、4人が死亡、約10人が負傷した。ここで負傷した植野さんは逃れる途中に倒れ、郊外の兵舎に収容されたが、数日間意識不明の状態が続いた。

父と兄姉は消息不明。植野さんは同級生と会うことなく、母と共に郷里の高知市に避難、結婚後は妻の実家の家業を継いで、改姓した。新井さんらは「中澤克彦君はどうなった?」と捜し続けたが、果たせなかった。

昨年の「広島の日」に植野さんは遺族の一人として平和祈念式典に招かれ、新聞の取材を受けた。一方、新井さんは被爆事情を語り伝える「証言者」の一人として、別の新聞の取材を受けた。それがきっかけで、2人の電話対談が実現した。

今年1月、植野さんは広島市内で開かれた同期会に出席して、入学直後の4カ月だけ学校生活を共にした仲間たちと再会した。それぞれに満80歳を迎えた現在「初めまして」と言いたくなる相手もいたが、同じ場所で負傷した旧友と傷痕を見せ合うなどして、70年近い空白は埋められた。

終戦の昭和20年は、広島以外の主要都市も戦災で学校が焼け、学籍簿が失われた。植野さんのような存在は、他の学校にもあると考えられる。

あの年には学校と共に、寺院や教会等の多くも焼失した。もし檀家名簿等が焼かれずに機能していたら、植野さんのような消息不明者捜しは、もっと早く終わっていたのではないか。

東北各地の他郷避難者の心を郷土に結び付ける働きを見るにつけても、宗教施設の存在の大切さを思う。寺檀関係等に特有の"腰の強さ"だ。今年は広島・長崎の、また戦災各地の70回忌である。