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自我の文明としての近代と世俗化の過程

2013年12月21日付 中外日報(社説)

人間の身体は60兆個の細胞からできているという。その1個1個の中には万単位の遺伝子があるそうだ。それだけではない。細胞内には物質を授受したり老廃物を排出したり故障を修復したりする機能まである。そして莫大な数の遺伝子、細胞、器官さらに個と全体とが、複雑なコミュニケーション・ネットワークで結ばれ連動して一つのまとまった体をつくり上げる。人間の体は知れば知るほど超複雑かつ超精密にできている。

ところが数十億年かけて出来上がった超精密な身体である人間がつまらないことを考え悪事をはたらく。考えようによっては悪事はかくも超精密にできている人間にしかできないわけだが、感心ばかりしてはいられない。

人間の場合は大脳が非常な発達を遂げた。大脳、換言すれば自我は情報を集め整理して行動を選択する機能である。ところが自我には情報処理の能力は生得的に備わっているのだが(その学的自覚が倫理学または数学である)、情報処理の基準と動力は備わっていない。生活の必要や社会的規範や感情や情熱のような行為選択の基準と動力は自我に生得的なものではない。自我がそれらを受け入れ自らに取り込んだ時、それらは自我自身の意志に転化するのである。

仏教が仏性と呼ぶような人間の本性が初めから選択の基準または決断・行為の動力として自我を動かせばよいのだが、自我はどうやらそれから離れてしまった。自我自身が生み出すものといえば永続し難い決心と強力なエゴイズムしかない。換言すれば自我は「人間的本性」から離れて自己中心的にはたらく情報処理装置となってしまった。旧約聖書にある、アダムとエバが善悪を知る知恵の木の実を食べて楽園から追放された(神から離れた)という話は、人間が言語を使用する自我となって本性を見失ったことの神話的表現であると思われる。

宗教は何とかして離れてしまった自我と本性を結び付けようと努力してきた。しかしそれは簡単ではない。自我が本性から離れてしまったばかりか、自力で本性に帰ろうとする自我の努力自体が自我を強化してしまうからである。

近代文明は身体の本性を見失った自我の文明である。自我たちは事物を対象化して認識し、それを技術に応用して、世界を自分たちに都合の良いように操作し、変えてきた。これを世俗化という。その行く先は良いことばかりではなさそうだ。宗教はこの過程を徹底的かつ批判的に解明しなければならないと思うのだが。