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近代の文明を作った図式的な思考の限界

2013年12月17日付 中外日報(社説)

戦後ペニシリンが登場して肺炎などの感染症に劇的な効果を発揮し、続いてさまざまな抗生物質が発見されて、遂に人間は細菌に勝利したと思われたことがあった。しかしことはそれほど単純ではなかった。抗生物質に耐性を持つ菌が出現したのである。DDTのような殺虫剤に耐性を持つハエも出現した。このような事実から、生物の世界では一定の原因は常に一定の結果を生むという単純な因果論が妥当しないことが明らかになってきた。

そもそも因果性とは「一定の原因が原因とは違った一定の結果を生む」ということではなく、「一定の条件がそろえば」「一定の出来事が生起する」ということである。因果性とは客観世界の現実ではなく、人間一般に通用する情報処理の仕方なのである。これは哲学的には明らかになっているのだが、それはしばらく措く。とにかく生物のように相対的にではあるが自律性を持つシステム間の相互作用は因果ではなく変換だという認識が一般化しつつあるように見える。単純な因果ではないというのは、分かりやすい例としては、同じ人が同じ薬を同じ量飲んでも、効き方は必ずしも同じではなく、まして薬の効き方は人によってかなり違うという事実がある。

食物を摂ればそれはそのままの形で体の一部になるのではなく、体内で分解され再編成されて初めて体の一部になる。これは新陳代謝(メタボリズム)だが、変換の一例である。ちなみにメタボレーというギリシャ語には「他者への移行」という意味があった。現代的に一般化すれば変換という意味になろう。

典型的なのは、例えば空気の振動が音という感覚に変換される例だろう。音という感覚にはむろん現実性がある。しかし感覚は物質ではない。重さもないし、物理量で表現もできず、元素でも化合物でもない。だから音は物質的な波動が身体内で非物質的な感覚に変換されたものであり、「音波という原因が感覚という(物質的な)結果を生む」のではない。それは刺と痛みの関係についても同様で、突き詰めれば脳細胞の網の目の活動が原因となって「こころ」という結果を生むのではなく、両者の関係は(相互的でさえあり得る)変換だというのが正しい。

原因と結果、目的と手段、個と普遍、主観と客観というような、認識と操作に適した図式が近代文明をつくった。しかし人間も自然もこうした使いやすい図式で処理できるものではないことが、やがて明らかになると思われる。